9/21、岩手花巻での、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」にてスピーチを仰せつかり、語った内容を記します。題して「宮沢賢治と高村光太郎」。


光太郎は、昭和20年(1945)から27年(1952)にかけ、足かけ8年を花巻町及び郊外太田村で暮らしました。その間、毎年のように賢治祭に参加、やはり講話を行いました。その機縁は、宮澤賢治の存在を抜きには語れません。

賢治の生前唯一の詩集『春と修羅』が刊行されたのは、大正13年(1924)のことでした。翌年、草野心平に勧められてこの詩集を初めて読んだ光太郎は、その特異な詩的世界を高く評価しました。 心平の回想には、高村家での次のような一コマが描かれています。
ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。
(「光太郎と賢治」 昭和31年=1956)
(「光太郎と賢治」 昭和31年=1956)
やがて心平は雑誌『銅鑼』を創刊、光太郎、賢治ともに同人となり、作品が誌上を飾ります。
しかし、光太郎と賢治が直接出会ったのは、おそらく一度だけ。大正15年(1926)の12月、賢治が、上京した折のことでした。二人の天才の運命的な出会いを、後に光太郎はこのように回想しています。
宮澤さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だつたでせう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰つて行かれました。
宮澤さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だつたでせう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰つて行かれました。
(略)
あの時、玄関口で一寸お会ひしただけで、あと会へないでしまひました。また来られるといふので、心待ちに待つてゐたのですが……。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしてゐて、とても元気でした。 (談話筆記「宮澤さんの印象」 昭和21年=1946)
あの時、玄関口で一寸お会ひしただけで、あと会へないでしまひました。また来られるといふので、心待ちに待つてゐたのですが……。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしてゐて、とても元気でした。 (談話筆記「宮澤さんの印象」 昭和21年=1946)
その後、二人の天才は二度と出会うことなく、賢治は昭和8年(1933)に早逝してしまいます。光太郎や心平ら、心ある人々には激賞されていた賢治でしたが、広く世に知られるには到りませんでした。
その死を悼んで、その年、光太郎はこう書きました。
内にコスモスを持つものは世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを
持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢
治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。彼の謂ふところのイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであった。 (「コスモスの所持者宮沢賢治」 昭和8年=1933)

次第に賢治の声価が高まるとともに、地元花巻でも賢治の業績を顕彰する気運が高まります。賢治の主治医でもあった総合花巻病院長・佐藤隆房らが中心となって花巻に作られた賢治の会が発案し、花巻に賢治詩碑を建立する計画が持ち上がりました。詩碑を建てる場所は、賢治祭会場の町内桜町、賢治が開いた羅須地人協会の跡地。刻む詩は「雨ニモマケズ」と決まりました。ただ、この詩はあまりに長いため、後半部分のみを碑文とすることにし、その文字の揮毫は賢治を広く世に紹介する労を執った光太郎に依頼されました。

除幕は昭和11年(1936)11月。碑の下のコンクリートの基礎には、賢治の遺骨、法華経の経文、『宮澤賢治全集』、詩碑建立の由来書を収めた鉛の箱が安置されたとのことです。2年後に歿する智恵子が南品川ゼームス坂病院に入院中ということもあり、光太郎は建碑式には参加できず、実際に初めてこの碑を眼にしたのは、疎開した昭和20年(1945)のことでした。
詩碑には、誰がどこで間違えたのか、除幕の段階で「雨ニモマケズ」の詩句に、計4カ所、脱漏や誤りがありました。昭和21年(1946)11月、その訂正を行うこととなり、太田村から出て来た光太郎が、足場に登って詩碑そのものに挿入・訂正箇所を筆で書き込み、初めに詩碑を刻んだ石工の今藤清六がその場で鏨で刻み、碑陰には「昭和廿一年十一月三日追刻」の文字が追加されました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったと伝えられています。


生前は無名の地方詩人に過ぎなかった賢治を世に知らしめた恩義に報いるため、政次郎らは光太郎を花巻に招いたのです。
続いて光太郎賢治、お互いが与え、そして受けた影響。
大正3年(1914)、光太郎の第一詩集『道程』が出版されました。これにより、日本の詩は島崎藤村などのそれまでの主流であった硬苦しい文語定型詩から、口語自由詩の時代へと遷って行きます。そうした意味では、賢治を含め、光太郎の後に続く詩人で光太郎の影響を受けていない者は皆無と言っていいでしょう。

また、賢治は精神性の部分でも、光太郎の歩んだ道を継承したとも言えるのではないでしょうか。彫刻家であった光太郎はミケランジェロ、ロダンと続く西洋近代芸術、賢治は法華経の教えと、そのバックボーンは異なるものの、ともに「道」を追求する「求道者」としての自己を詩に表しました。
草野心平の回想には、以下のように記されています。
文学や芸術の世界では、賢治は光太郎に一番関心をもつてゐたといふことにもなりさうである。事実、私がもらつた賢治の或る手紙にはそれを裏付けるやうな文面があつた。
(略)
いま手元にないので残念だが、暗記してゐる点をあげれば、「高村光太郎氏にはまことに知遇を得たし、以て芸術に関する百千の疑問を解し得ば(この後の方はウロ憶えだが『師礼を以て』自分の先生になつてもらひたいといふ意を文語調で書いてあつた。)」
いま手元にないので残念だが、暗記してゐる点をあげれば、「高村光太郎氏にはまことに知遇を得たし、以て芸術に関する百千の疑問を解し得ば(この後の方はウロ憶えだが『師礼を以て』自分の先生になつてもらひたいといふ意を文語調で書いてあつた。)」
一方の光太郎も、賢治の世界を激賞し、様々な部分で影響を受けています。昭和13年(1938)、最愛の妻・智恵子を失った光太郎は、翌年、その臨終に題を採った絶唱「レモン哀歌」を執筆しました。ここに賢治が妹・トシの最期を謳った挽歌「永訣の朝」の影響が見てとれるという指摘がされています。
さらに、太田村での七年間の山小屋生活。元々光太郎には、若い頃から辺境の地で農耕牧畜にいそしみながら、芸術を産み出すという願望がありました。無計画さゆえにたちまち頓挫しましたが、海外留学から帰国した直後の明治末には実際に北海道に渡ったこともありました。
また、光太郎の周辺人物の中には、そういう生活を送っていた人々も、すくなからず存在しました。北海道弟子屈の詩人・更級源蔵、山形の詩人・真壁仁、千葉三里塚に移った作家の水野葉舟、宮崎に「新しい村」を開いた武者小路実篤、そして花巻の賢治その人も。光太郎の山居七年は、「雨ニモマケズ」の一節、「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ」の実践だったのです。

戦後の昭和21年(1946)には、光太郎と賢治の実弟・清六、二人の編集で、日本読書利用購買組合(のち、日本読書組合)から、全十一冊の予定(六冊で中断)で新たな全集が刊行されました。この版では、各冊とも光太郎による装幀、題字、そして「おぼえ書き」が収められました。
さらに光太郎没後の昭和31年(1956)からは、筑摩書房版の全集が、心平を中心として刊行され、やはり光太郎が装幀と題字を担当しました。巻数の漢数字は六までを書いたところで光太郎は歿し、以降は心平が光太郎の筆跡を真似て補いました。下記画像は光太郎による装幀案です。

また、光太郎はその最晩年まで、折に触れ、文章で、頼まれて書く書で、賢治の世界をを紹介する労を厭いませんでした。その功績もあり、賢治の世界は広く世に受容され、その名は不動のものとなりました。

心平ともども、遠く大正年間にそうなることを予測していた光太郎の眼力、そうなるべく献身的かつ精力的に発揮したプロデュースの力にも、敬服せざるを得ないでしょう。

こうしたさまざまな縁で結ばれた光太郎と賢治。二人の業績が正しく後世へと受け継がれてゆくことを願ってやみません。
【折々の歌と句・光太郎】
秋晴れて林檎一万枝にあり 昭和21年(1946) 光太郎64歳
林檎栽培が今でも盛んな花巻での作です。