岡山県赤磐市から企画展情報です。 

宮沢賢治のほとりで-永瀬清子が貰った「雨ニモマケズ」

期  日 : 2016年9月2日(金)~2016年11月27日(日) 月曜休館
時  間 : 09:00~17:00
会  場 : 永瀬清子展示室 赤磐市くまやまふれあいセンター2階
         岡山県赤磐市松木621-1
料  金 : 無料
問合せ先 : 086-995-1360 (赤磐市教育委員会 熊山分室)

賢治が遺した「雨ニモマケズ」は、「夢の構図」なのだ
2016(平成28)年は、宮沢賢治生誕120年、永瀬清子生誕110年の年です。永瀬清子は、1932 (昭和7)年に宮沢賢治の詩集『春と修羅』を手にして以来、終生宮沢賢治を慕い、人と作品とともに歩み続けました。とりわけ、詩「雨ニモマケズ」は縁が深く、永瀬清子の詩と人生に大きな影響を与えています。
この展示では、永瀬清子が宮沢賢治の詩集『春と修羅』に出会い、宮沢賢治追悼会で「雨ニモマケズ手帳」発見の現場に立ち会ったときのことを紹介します。

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関連行事
 岡山県生涯学習大学連携講座
 講演会 宮沢賢治と永瀬清子 -妹トシと「雨ニモマケズ」をめぐって
 講師:山根知子先生(ノートルダム清心女子大学教授)
 日時:平成28年9月4日(日)  午後2時~3時30分
 場所:赤磐市くまやまふれあいセンター 第1会議室
 参加費:無料(要事前電話申込)
 申込開始日:平成28年8月2日(火) ※申し込みは下記まで
 定員:20人(先着順)


永瀬清子は明治39年(1906)、岡山県赤磐郡豊田村松木(現赤磐市)の生まれ。光太郎と交流があり、昭和15年(1940)に刊行された第二詩集『諸国の天女』の序文を光太郎が書いている他、光太郎最晩年に、その終焉の地中野のアトリエを訪れたりもしています。

赤磐市では永瀬の顕彰活動を継続的にいろいろ行っており、当方も一度お邪魔しました。生家が保存されている他、公民館的な赤磐市くまやまふれあいセンターさんには「永瀬清子展示室」が設けられ、常設展示の他、このような企画展示も行われています。

今回は宮沢賢治生誕120年にからめた展示。永瀬と「雨ニモマケズ」については、以前にも書きましたが、改めてご紹介します。

賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、実弟の清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのが光太郎、宮沢清六、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

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前列左から二人目が宮靜枝、四人目が光太郎、その隣が清六、一人置いて永瀬。後列左から五人目が草野心平、一人置いて深沢省三、右端が巽聖歌です。

永瀬の回想から。

昭和九年の二月になってふと宮澤賢治氏の追悼会をひらくので新宿の映画館の地下にある「モナミ」へ来るようにお通知が来た。
(略)
その会には弟の宮沢清六さんが来ていらした。はるばる岩手県の花巻から賢治さんの原稿のつまった大きなトランクをさげて上京されたのだ。多分あとで考えると宮沢賢治選集のはじめての出版のためであったものと思う。
 そのトランクからは数々の原稿がとりだされた。すべてきれいに清書され、その量の多いことと、内容の豊富なこと、幻想のきらびやかさと現実との交響、充分には読み切れないまま、すでにそれらは座にいる人々を圧倒しおどろかせた。
 原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかがみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。
 そしてやがてふと誰かによってトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。
 高村さんは「ホホウ」と云っておどろかれた。その云い方で高村さんとしてはこの時が手帳との最初の対面だったことはたしかと思う。心平さんの表情も、私には最初のおどろきと云った風にとれ、非常に興奮してながめていらしたように私にはみえた。
 「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」とやや太めな鉛筆で何頁かにわたって書き流してある。
 『春と修羅』はすでによんでいても、どうした人柄の方かすこしも聞いたことがなかったので、この時私には宮沢さんの本当の芯棒がまっすぐにみえた感じがした。或はその芯棒が私を打ったのかもしれない。でも私だけでなく一座の人々はそれぞれに何かこのめっそうもないようなものを感じとった風だった。
 この時の世の中で、この時の詩壇で、一般には考えられないようなことがそこには書いてあったのだ。それはその時までに詩のことばとして考えられていたもの以上だったから、或は粗雑で詩ではないと人はみるかもしれぬ。でもそこにはきらびやかな感覚の底にあった宮沢さん自身が、地上に露呈した鉱脈のように見えていた。又それがほかの清書された原稿ではなく、小さい小さい手帖だったから、自分自身のために書かれた一番小さい手帖だったから、いっそうその感が強かったのだ。
(『かく逢った』 昭和56年=1981 編集工房ノア)


それ以前から、永瀬は賢治に関して言及していました。きっかけは光太郎と同じく、草野心平に『春と修羅』を紹介されたことだそうです。いち早く賢治の才能に気付いた心平の炯眼、さらに気付くだけでなく周囲に広めようとした行動力には驚かされます。


赤磐では、これ以外にも市民講座的に光太郎智恵子を取り上げて下さいます。また近くなりましたらご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

撲てば蚊の落ちぬちひさきなきがらや霊や命や我が世は難し

明治43年(1910) 光太郎28歳

とはいうものの、当方、蚊に刺されやすく、また、刺されると腫れ方がひどくなりす。毎日、蚊との格闘です。