新刊、といっても2ヶ月前ですが、気付くのが遅れ、紹介が遅くなりました。 
2016/03/10 筑摩書房(ちくま新書) 墨威宏著 定価960円+税


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知らなかった!銅像の真実
歴史的人物や偉人の像、アニメのキャラクター像など日本全国の銅像を訪ね歩き、カラー写真と共に、エピソードや現地の情報を盛り込んで紹介する楽しい一冊。
明治期に欧米から入ってきた「銅像」文化は日本人に合っていたらしく、日本風にアレンジされて各地に次々に建てられていった。明治期後半には偉人の像、昭和初期には全国の小学校に二宮金次郎像、近年はアニメのキャラクター像なども立ち、第三次ブームと呼べるほど増え続けている。それぞれの銅像の背負っているものを掘り下げていくと、日本の近現代史が見えてくる。
 
目次
第1章 秘められた歴史
第2章 謎の銅像
第3章 昭和の記憶
第4章 源平合戦の虚実
第5章 戦国武将の盛衰
第6章 幕末の群像
第7章 銅像が語る文学史


基本的に、全国の銅像を紹介する項立てになっており、「第1章 秘められた歴史」の中で、光太郎の父・光雲が制作主任となって作られた「楠木正成像」「西郷隆盛像」が扱われています。

同時に、「銅像」受容の歴史を考察する作りにもなっており、楠公像、西郷像の項では、サブタイトルを「銅像会社設立を考えた光雲」とし、光太郎にも触れています。

特に日露戦争後、武功のあった軍人などの像を造る機運から、一種の銅像ブームが起こりました。光雲が「銅像会社」の構想をぶちあげたのは、光太郎が欧米留学から帰った明治42年(1909)です。日本郵船の阿波丸という船で、神戸港に着いた光太郎を迎えに来た光雲が、東京への汽車の中で光太郎に語りました。

「弟子たちとも話し合つたんだが、ひとつどうだらう、銅像会社といふやうなものを作つて、お前をまんなかにして、弟子たちにもそれぞれ腕をふるはせて、手びろく、銅像の仕事をやつたら。なかなか見込があると思ふが、よく考へてごらん。」
(「父との関係」 昭和29年=1954)

この光雲の構想は単なる思いつきではありません。楠公像や西郷像同様、東京美術学校として受注し、光雲を中心に山崎朝雲、本山白雲らが携わった銅像がかなりありましたし、光太郎の実弟・豊周は既に鋳金の道に進み始めていました。実際に光雲の残した綿密な構想メモも現存し、ビジネスとして非常に見込みのある企画だったといえます。

しかし、光太郎にとっては、功成り名遂げた人物の自己顕示、または周囲のゴマすりのような形での銅像制作は、俗なもの、芸術にあらず、という感覚でした。

私はがんと頭をなぐられたやうな気がして、ろくに返事も出来ず、うやむやにしてしまつた。何だか悲しいやうな戸惑を感じて、あまり口がきけなくなった。
(同前)

結局、光太郎は光雲を頂点とする日本彫刻界とは縁を切り、独自の路線を歩み始めます。光雲も、光太郎が乗ってこないなら、ということで銅像会社の構想は断念しました。

ただし、光太郎、のちに光雲の代作で銅像の原型制作は何度もやっていますし、銅像ならぬ肖像彫刻も数多く手がけています。『銅像歴史散歩』にも紹介されている光雲像、日本女子大学校初代校長・成瀬仁蔵(NHKさんの朝ドラ「あさが来た」における成澤泉)像など。

単なる「銅像」と「肖像彫刻」の境界がどこにあるのか、難しいところです。おおざっぱにいえば、作者があまり前面に出て来ず、モデルとなった人物の顕彰、という点が中心になっているもの、いわば「誰々作った」がメインなのが「銅像」、それに対し、作者が重要で、「誰々作った」という感覚で捉えるべきなのが「肖像彫刻」、といえそうな気がしますが、その線引きは曖昧模糊としています。

今後も考察を続けてみたいと思います。

ところで『銅像歴史散歩』。定価960円+税と、新書としては高額です。これは、ほぼ全ページカラーで画像が多数使われているせいでしょう。その意味では妥当な価格です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

夏は来ぬものみなみちよかがやけよ生めよふえよととどろくちから
明治37年(1904) 光太郎22歳

当方、夏は大好きです。しかし、急に暑くなったせいで、あちこちで急に冷房が使われはじめ、かえってそれにやられました。夏風邪気味です。