昨日は、東京・晴海に行っておりました。第一生命ホールさんで開催された、合唱団CANTUS ANIMAE(カントゥス・アニメ)さんの第20回演奏会「つながる魂のうた」を拝聴して参りました。


故・三善晃氏の作品を軸に、それプラス3名の若手女性作曲家さんたちの、それぞれ委託初演作品等というプログラムでした。

委託初演作品の中で、安藤寛子さんという方の「智恵子の手紙」という作品。智恵子が母・センに宛てて書いた手紙をテキストに使用する、というので非常に興味深く思っておりました。
1曲目は、谷川俊太郎氏作詞、三善晃氏作曲の「鳥」。ア・カペラ(無伴奏)の曲で、三善作品の中では定番の「地球へのバラード」という曲集の一曲です。ア・カペラの曲はごまかしがききにくいのですが、さすがにコンクール全国大会ご常連の団、その表現力には早くも引き込まれました。三善作品は、一つ一つのフレーズや、さらに細かく云えば音符や休符の一つ一つに作曲者の思い入れ、特別なニュアンスが込められており(いわゆる「三善アクセント」など)、「何げなく歌う」ことは許されません。そういう意味では、本当に徹頭徹尾、緊張感を持続して歌わなければならないのですが、そうかといって、聴く方に緊張感を強いる演奏もよくありません。歌う方はさまざまな工夫を凝らしながらも、聴衆には、そうした点で作為を感じさせず、自然に、心地よく届く音楽、というのが理想だと思います。
その点、CANTUS ANIMAEさんの演奏は、三善作品以外の最終ステージ最後の曲まで、そうした部分が具現されていたように感じました。人数も多く、厚味のある合唱でした。
さて、「鳥」が終わり、配布されたパンフレットを見ると、連続して「智恵子の手紙」ですが、一旦、合唱団の皆さんは袖に引っ込み、指揮で音楽監督の雨森文也氏のMC。三善氏への思い、それから委託初演3曲の解説などでした。
MCが終わり、ここで舞台の照明は半分くらいに落として、演奏者入場というのが一般的です。ところが、ほぼ完全に暗転。「あ、こりゃ何かやるな」と思いました。「何か」というのは「演出」という意味です。
案の定、袖に通じる扉が開き(第一生命ホールさん、最近流行のサイドの反響板に扉がついているスタイルです)、袖から通奏低音的に、女声のハミング(ないしはヴォカリーズ)で、唸るような低いA音(当方、絶対音感が無いので違っていたらすみません)が聞こえてきます。
その音に乗って、60名程の団員の皆さんがゆっくりゆっくり入場。まだ舞台は暗転のままです。さらに驚いたのは、団員の皆さん、客席に向かって背を向ける形で整列したこと。さすがに背を向けていたのは最初だけでしたが、皆さん、上下とも黒の服装でしたので(男声は上着を着ずに黒シャツ)、葬列のような印象を受けました。
やがて、女声の方がお一人、舞台中央前方に歩み出て、オペラのアリアのようにソロで歌い始めました。オペラといえば、この曲全体が、合唱というより、オペラの一幕のようでした。ア・カペラだったのですが、オペラの一幕という印象。矛盾していますが、それだけ迫力に満ちた演奏だったということです。ある意味、柴田南雄氏作曲の「宇宙について」や、オルフの「カルミナ・ブラーナ」を連想しました。ぶっとび方はそれらの比ではありませんが(ほめています、念のため)。
テキストは、以前このブログでご紹介した、智恵子の心の病が誰の目にも明らかになった時期、昭和6年(1931)のものを中心に、その前後の、全て母・センに宛てた手紙から採られていました。


そうした智恵子の不安定な内面を表すように、不安をかき立てるような半音進行、不協和音、さらにはクラスター唱法的な手法も用いられていました。そうかと思えば比較的単純で美しいメロディーの部分もあり、終末近くでは完全な無音の状態が約30秒。最後はまた、最初とは異なる女声の方が前に出て、「それではまた」と繰り返すアリア。まさしくドラマチックでした。時計を見るのも忘れ、引き込まれていたのでよく分かりませんが、15分程の演奏時間だったでしょうか。
「厚味」のある演奏が求められるので、少人数のアンサンブル的な合唱団さんでは不可能。たとえ人数が多くても、技術が伴わなければ不可能。これをしっかりと歌い上げたCANTUS ANIMAEさんには脱帽でした。そう考えると、なかなか広まりにくいとは思われますが、初演のみでお蔵入り、ということにならないことを祈念いたします。
また、こうした音楽で、「智恵子」という人間を鮮やかに描いた、作曲の安藤さんにも敬意を表します。勝手ながら、パンフレットからお言葉を載せさせていただきます。

一般に、「智恵子抄」というと「純愛の詩集」。当方も制作のお手伝いをし、昨年オンエアされたNHKさんの「歴史秘話ヒストリア」にしても、サブタイトルは「ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」でした。しかし、その裏側には、智恵子という一人の人間の、焦燥感、光太郎や家族への愛憎(「憎」の部分も見逃せません)、無謀ともいえるやる気、空回り、そして絶望感などが、どろどろと渦巻いていました(「ヒストリア」でも、そうした部分はしっかり描いて下さいましたが)。光太郎もそうした部分はある程度理解していたはずですが、完全には理解しきれず、それが大きな悲劇につながります。しかし、光太郎もある程度理解していたというのが理解されていなかった時代には、かの吉本隆明ですら「高村のひとり角力(ずもう)」と断じていました。
そうした単純な賞賛や批判に対し、当会顧問の北川太一先生(亡くなった吉本の盟友でもありました)は、次にようにおっしゃっています。
はじめこの詩集(注・智恵子抄)は光太郎の一方的な思いこみにすぎず、光太郎の声だけしか聞こえない単なる幻想の産物だと批判した者もあった。しかし智恵子に関する資料が徐々に発掘され、智恵子が肉声で語り始めるにつれて、その生の軌跡はますますリアリティを加え、文学としての評論、創作はもとより、ドラマ、オペラ、歌曲、舞踊、邦楽等々芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。遙かな未来を指さすその現象は、むしろ壮観と言っていい。
(『芸術…夢紀行 高村光太郎智恵子抄アルバム』 芳賀書店 平成7年=1995)
ここでまた、合唱曲「智恵子の手紙」が加わったことを喜びたいと思います。
その後の演奏も素晴らしいもので(詳述する余裕がありませんが)、大満足の演奏会でした。CANTUS ANIMAEさん、安藤さん、今後のさらなるご活躍を期待いたします。
【折々の歌と句・光太郎】
いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる
昭和13年(1938)頃 光太郎56歳頃
昭和9年(1934)5月7日、光太郎は心の病の昂進した智恵子を、「空がない」と言った東京から離れた大自然の中で療養させようと、妹・セツが暮らし、母・センも同居していた九十九里浜に転地させました。
のちにその頃を回想して作られた短歌で、さらに昭和16年(1941)、最初の『智恵子抄』刊行の際、「うた六首」としてこの作品も掲載しました。
六首をまとめ、古くは故・清水脩氏により合唱曲(男声/混声)に、新しくは野村朗氏により独唱歌曲に作曲されています。