映画の公開情報です。

昭和6年(1931)、光太郎が訪れて紀行文「三陸廻り」を残したことを記念し、かつて巨大な「高村光太郎文学碑」が建てられ、以来、あの東日本大震災で碑は倒壊しながらも、「女川光太郎祭」が連綿と続けられている、宮城県女川町が舞台です。

まずは、仙台に本社を置く『河北新報』さんで、今年2月に掲載された記事から。 

女川復興の軌跡描く 苦悩追う映画先行試写会

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城000県女川町の復興の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」の先行試写会が21日、町まちなか交流館であった。実行委員会が主催。町民ら約150人が鑑賞した。
 タイトルは港町・女川を代表するサンマと、水産業の中核施設の大型冷蔵庫「マスカー」の建設を支援した中東のカタールから。再起に懸ける水産関係者や大切な人を失った住民の苦悩、まちづくりの様子や国境を越えた支援などを2年間にわたって追い、約1時間10分の作品に仕上げた。
 町民約30人が登場。映画の中で、マスカー建設に奔走した石森洋悦さん(59)は「町民に前を向いてほしかった」と明かし、復興イベント「復幸祭」実行委員長の阿部淳さん(41)は「『人が死んでいるのにお祭りか』などと非難も浴びたが、やり遂げた事実は残る」と思いを語った。
 阿部由理さん(55)は津波で自宅を失い、2012年に復興に尽力した町職員の夫を亡くした。上映後のあいさつで「主人のような人間がいたことを思い出してもらえたらいい」と語り掛けた。乾弘明監督(52)は「まちづくりの大変さや皆さんの苦労を肌で感じ、女川に力をもらった」と謝辞を述べた。
 映画は5月7日から東京都のヒューマントラストシネマ有楽町など全国で公開。県内では翌8日から仙台市青葉区の桜井薬局セントラルホールで上映される。


というわけで、明後日から、全国各地で順次公開が始まります。 

サンマとカタール~女川つながる人々


イメージ 2

あまりにも多くを失ったマイナスからのスター
カタールの援助が灯となった復興をゆだねられたのは若者達
泣いた、怒った、そして笑った!
荒れ野に芽吹いた小さな草が蕾をつけ
今、花開こうとしている
女川は流されたんじゃない
海の見える景色を残したまま新しい女川が誕生する!
女川復興の軌跡に迫る

宮城県女川町は牡鹿半島の付け根にある水産業の町。サンマの水揚げで有名だ。
石巻線の終着駅で、古くから天然の良港として栄えた美しい港町だった。

「あの日」までは…

この町の人々は、「あの日」2011年3月11日を何十年も何百年も語り継いでいくことになるだろう。住民の1割近くが犠牲となり、8割以上が住まいを失った。被災した全ての市町村の中でも、人口比では最も激烈な被害を蒙った町である。町の中心部は根こそぎ津波にのまれ、失うものは何もなくなった。

そんな絶望から、人はどうやって立ち上がるのだろう…。

最初の希望は、中東の国カタールによってもたらされた。古くは漁業で栄えたカタールは、震災直後に基金を設置し津波対応を施した冷凍冷蔵施設「マスカー」を建設。そして、小さな町だからできる独創的な発想と素早い行動、5年たった今でも寝る間を惜しんで復興にかける若きリーダーたち、その仲間が生み出す波及効果。人々の輪は町を飛び越え広がっていく。

女川は今、復興のトップランナーと呼ばれる。
震災前よりレベルアップした町づくり、そこに至る苦悩と喜びを見つめていく。

 青森 シネマディクト ルアール/ルージュ 6/25(土)~7/1(金)
 宮城 桜井薬局セントラルホール      5/8(日)~5/20(金)
 東京 ヒューマントラストシネマ有楽町   5/7(土)~5/20(金)
 千葉 シネマイクスピアリ            6/23(木)
 愛知 名演小劇場                5/14(土)~5/27(金)
 岐阜  大垣コロナシネマワールド        5/21(土)~6/3(金)
 大阪 シネ・リーブル梅田            5/21(土)~6/3(金)
 岡山 岡山メルパ                6/11(土)~6/24(金)
 広島 福山駅前シネマモード         6/11(土)
 岐阜 こくふ交流センター          10/30(日)
 兵庫 神戸アートビレッジセンター    6/12(日)
 広島 広島国際会議場 大会議室ダリア
    5/26(木)




予告編の動画を拝見、見知った顔もあり、これは是非観に行かなければ、と思いました。

限られた会場での公開ですが、皆様も是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

摘むに花くむに泉のあまからむ男の子世にゆく道たかうあれ
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は5月5日。端午の節句です。

明治34年(1901)、数え19歳の光太郎は東京美術学校彫刻科在学中。さらに前年から与謝野鉄幹の新詩社に加わり、未来への夢をふくらませている時期でした。