東京豊島区で練習を行っている一般合唱団CANTUS ANIMAE(カントゥス アニメ)さん。全日本合唱コンクールなどのご常連です。

そちらの第20回演奏会が来月行われ、智恵子がらみの作品が初演されます。 
期  日 : 2016/05/08(日)
会  場 : 第一生命ホール 東京都中央区晴海1-8-9 晴海トリトンスクエア内
時  間 : 13:00開場 13:30開演
料  金 : 一般2,500円(前売り2,000円)/高校生以下 1,000円(全席自由)
プログラム :

三善晃 作曲  「地球へのバラード」より 鳥  詩:谷川俊太郎
安藤寛子 作曲  「智恵子の手紙」 (委嘱初演) 文:高村智恵子

三善晃 作曲  「黒人霊歌集」より Sometimes I feel like a Motherless Child
森田花央里 作曲 「青い小径」 詩:竹久夢二 「石像の歌」 (委嘱初演) 詩:リルケ 訳詩:森田花央里

三善晃 作曲  「その日 – August 6 -」  詩:谷川俊太郎
松本望 作曲 タイトル未定 (委嘱初演) 

[指揮]雨森文也 [ピアノ]平林 知子、松本望、森田花央里

イメージ 1

「智恵子抄」などの光太郎詩をテキストに使った楽曲はそれなりに多く作られていますが、智恵子が書いたものを使ったそれはおそらく初めてではないでしょうか。

作曲の安藤寛子さん、ご自身もCANTUS ANIMAEさんで歌われているようです。ブログに以下の記述がありました。

機会をいただき、新作の混声合唱曲(アカペラ)を発表していただけることになりました。
テキストは、高村光太郎の妻、高村智恵子が実母に宛てた手紙です。
「智恵子抄」でよく知られている、あの"智恵子さん"です。

ふるさとの空を「ほんとうの空」と言った智恵子。
智恵子は、自身が目指した芸術もうまくいかず、実家も破産し、度重なる家族の死や弟の放蕩などの苦難の中、実母を励まし自分を奮起させる手紙を書きます。その手紙を題材とした合唱作品です。
高村光太郎があえて描かなかった智恵子の姿に焦点をあてることで、「智恵子抄」を別の視点で味わうご提案ができる楽曲になればと思います。

取り上げられた智恵子の書簡は、おそらく昭和6年(1931)7月29日の消印で、福島の実家である長沼酒造が破産し、東京中野に出て来ていた母・センに宛てた長い手紙と思われます。

母上様
 きのふは二人とも悲くわんしましたね。しかし決して決して世の中の運命にまけてはなりません。われわれ死んではならない。いきなければ、どこ迄もどこ迄も生きる努力をしませう。皆で力をあはせて皆が死力をつくしてやりませう。心配しないでぶつ倒れるまで働きませう。生きてゆく仕事にそれぞれとつかゝりませう。私もこの夏やります。やります。そしていつでも満足して死ねる程毎日仕事をやりぬいて、それで金も取れる道をひらきます。かあさん決して決して悲しく考へてはなりません。私は勇気が百倍しましたよ。やつてやつて、汗みどろになつて一夏仕事をまとめて世の中へ出します。悲しい処ではない。そしてそれが自分の為であり、かあさん立ちの為にもなるのです。金を自分の手でとれるやうになつて、かあさんが困らないやうになつたら、ああ、どんなに愉快でせう。
(略)
力を出しませう。私不幸な母さんの為に働きますよ 死力をつくしてやります。金をとります。いま少しまつてゐて下さい。決して不自由かけません。もしまとめて金がとれるやうになつたら、みんなかあさんの貯金にしてあげますよ。決して悲観してなりません。けふは百倍の力が出てきました。それではまた。

あまりに長い上に、途中で日本語が崩壊しています(引用した部分でも「てにをは」がおかしいところがあります)ので省略しましたが、この倍ぐらいの長さです。現物は当会顧問の北川太一先生がお持ちで、以前に見せていただきました。

この頃から智恵子の心の病が顕在化します。光太郎は、というと、この1週間後に、『時事新報』の依頼で紀行文執筆のために約1ヶ月家を空け、三陸を旅します。この直前には、昨日ご紹介したとおり「僕も仕事に精進してゐます」と、ある意味のんきなことをフランスの高田博厚に書き送っていました。こうした齟齬が、智恵子の心の病を引き起こす決定打になったように思われます。

こうした手紙がどのように合唱曲になるのか、実に興味深いですね。

ところでCANTUS ANIMAEさん、一昨年に紀尾井ホールで行われた「The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜」にもご出演されていました。当方、その際は女声アンサンブルJuriさんの演奏、光太郎詩4篇に三好真亜沙さん作曲の「女声合唱とピアノのための「冬が来た」」を聴きに行ったのですが、CANTUS ANIMAEさんの演奏も記憶に残っています。素晴らしい演奏でした。

こうした取り組みももっともっと広がってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

我が顔の窓にうつるや春の宵    明治42年(1909) 光太郎27歳

青森では昨日あたり桜の開花宣言だそうですが、こちら(房総)ではもはや晩春の様相です。