福岡県の地方紙『西日本新聞』さんの一面コラム「春秋」。昨日掲載分です。連翹忌に触れて下さいました。 

春秋 2016/03/29

 来月2日は高村光太郎の没後60年に当たる。教科書にも載る「道程」や「智恵子抄」で知られる詩人は、一方で戦争に協力する詩文も書いた
▼例えば、日米開戦を称揚し国民を鼓舞する詩。〈記憶せよ、十二月八日。/この日世界の歴史改まる。/アングロサクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる。〉。西欧の芸術を学び、人の「生」を肯定、称賛した高村も、戦争へと突き進む時代の奔流にのみ込まれたか
▼戦後、多くの文学者や芸術家が、戦争に協力したことなど忘れたかのように活動を再開する中、高村は戦意高揚の旗を振ったことを深く恥じ悔いた。岩手県の山あいの粗末な小屋で7年間の謹慎生活を送り、自らの過ちと愚かさを省みる連作詩「暗愚小伝」を残した
▼安全保障関連法はきょう施行。集団的自衛権の行使を可能にするこの法律で、自衛隊の海外での活動が大幅に拡大される。日本の安全保障にとって新たな道程の始まりだ
▼過去の戦争への反省を踏まえ、歴代内閣は集団的自衛権の行使を禁じていた。それを選挙の争点とすることもなく、一内閣が独断で変更した。反対はなお根強く、憲法学者の「違憲」の指摘も相次ぐ
▼夏の参院選は衆院選と同時に、という動きが強まっている。ならば正面から争点に据え、あらためて国民の審判を仰ぐべきであろう。後に愚かだったと悔やまぬように。私たちの後ろに出来る道のために。


「我が意を得たり」という感じでした。

書かれているとおり、光太郎は戦争推進に協力する詩文を書きました。数え方にも左右されますが、その生涯に光太郎の遺した詩は700篇強。そのうち200編弱は戦争協力詩といえるものです。詩集としても、選詩集や元の詩集の改訂復刊的なものを除けば、生涯に上梓した詩集は6冊。『道程』(大正3年=1914)、『智恵子抄』(昭和16年=1941)、『大いなる日に』(同17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)、『典型』(同25年=1950)。

イメージ 1

この6冊のうち、『大いなる日に』、『をぢさんの詩』、『記録』の三冊、つまり半分は戦争協力詩が中心の詩集です。

中を見てみると、今の言葉で言えば「痛い」「やっちまった」作品のオンパレード。特に『をぢさんの詩』収録のものは、年少者向けのものですので、その「痛さ」はひどいものです。


  軍艦旗004

ぼく知つてるよ  軍艦旗
御光(ごくわう)のさしてる  日の丸だ
御光のかずが   十六本
ほんとにきれいな 軍艦旗

ぼく知つてるよ  軍艦旗
艦尾旗竿(きかん)に   ひらひらと
大きくつよく    たのもしく
ほんとにりんたる 軍艦旗

ぼく知つてるよ   軍艦旗
日の出日の入り  おごそかに
全員そろつて    揚げおろす
ほんとにたふとい 軍艦旗

ぼく知つてるよ  軍艦旗
いざ戦ひと     いふ時は
大檣上(たいしやうじやう)に    空たかく
さんぜんかがやく 戦闘旗


注目すべきはこの詩が書かれた日付です。草稿に書かれたメモによれば、昭和14年(1939)2月26日となっています。その3日前には、この前年秋の智恵子の臨終を謳った『智恵子抄』中の絶唱、「レモン哀歌」が書かれています。

その3日後には、こんな愚にもつかない翼賛詩を書いている光太郎。まさに智恵子を失ったことにより、精神のバランスをも失っています。

この駄作や、『西日本新聞』さんに引用されている「十二月八日」などの翼賛詩を、たしかに数は多いのですが、光太郎の真髄と捉え、涙を流してありがたがる輩がいまだに多いのには閉口させられます。昨日施行されたとんでもない法案を考え出した連中もそうなのでしょうが。

光太郎の真髄は、『西日本新聞』さんにあるとおり、「戦意高揚の旗を振ったことを深く恥じ悔いた。岩手県の山あいの粗末な小屋で7年間の謹慎生活を送り、自らの過ちと愚かさを省み」たことにあります。

光太郎歿して60年。今週土曜日は、節目の年の連翹忌です。案内状には、当会顧問北川太一先生の、次のようなお言葉を賜りました。「戦後高村さんが辿った歴史の歯車が逆転しそうなこんな時期こそ、親しくお目にかかり、お話をお聞きし、今やこれからの沢山の報告もお聞きいただきたく存じます。」まったくその通りです。「私たちの後ろに出来る道のために」。


【折々の歌と句・光太郎】

人かあらずただしたはしの春の水おりし胡蝶のけさねたましき
明治34年(1901) 光太郎19歳

昨日、自宅兼事務所の庭で、この春初めて蝶を見かけました。