一昨日の『日本経済新聞』さんの教育面に載った記事です。 

キャンパス新発見 日本女子大 建学の精神伝える講堂 1階700席、最近まで活用

 日本女子大学目白キャンパス(東京・文京)の正門をくぐると、右手に教会を思わせる木造の建物が見えてくる。成瀬仁蔵による建学の精神を今に伝える成瀬記念講堂だ。
 1901年(明治34年)、成瀬は大隈重信、渋沢栄一、広岡浅子ら多くの支援者を得て日本女子大学校を創立する。5年後には講堂が完成。2階に書架を備え、「日本唯一の婦人図書館」として一般開放を考えていたという。
 しかし相次ぐ災害が講堂を襲う。14年には火災が発生し、図書館計画が頓挫。関東大震災ではレンガが崩れるなど大きな被害に見舞われた。その後の修復工事で木造に改築された。
 講堂内部は創建当時の姿を今に伝えている。特徴的なのは天井部分。広い天井と独特なはりの形は西洋の教会のよう。日本では珍しいハンマービーム工法と呼ばれる建築方法だ。演台の上にある成瀬の胸像は高村光太郎の作。ステンドグラスも当時のままだ。貴重な建築物として、東京都文京区の有形文化財に指定されている。
 講堂には1階に約700席、2階に約400席があり、1階部分は最近まで式典や講演などで使っていた。歴代校長・学長が受け持つ授業もここで行われたという。創立者が書いた建学の理念を示す言葉が飾られるなど、「宗教色がない学校の校風を醸成する場でもあった」(成瀬記念館学芸員の岸本美香子さん)。
 現在は耐震工事を控えて一般公開はしていないが、講堂のすぐ近くにある成瀬記念館では創立者の生涯を常設展示している。4月8日までは「女子大学校創立の恩人―広岡浅子展」を開催中。NHK連続テレビ小説「あさが来た」のモデルとなった広岡が成瀬宛に出した書簡や、写真などを展示している。記念館は一般の人も見学できる。

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というわけで、NHKさんの「あさが来た」にからめ、光太郎作の成瀬仁蔵胸像が納められた成瀬記念講堂が紹介されています。

以前にも書きましたが、この像は成瀬が亡くなる直前の大正8年(1919)に、光太郎に制作が依頼されました。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、光太郎自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。

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画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

いい加減なところで妥協して「はい、完成」とはしない、こうした光太郎の制作態度は、智恵子の絵画制作にも影響を与えたかも知れません。心を病む直前の智恵子も、取りかかった絵画を結局完成させられなかったことがたびたびあったということです。そしてそれが智恵子の場合、どんどん自信の喪失に繋がっていったようです。

さて、「あさが来た」。先頃、新キャストの発表が行われました。その中で、智恵子と同じ家政学部の1級上でテニス仲間、のちに『青鞜』を主宰し、智恵子にその表紙絵を依頼した平塚らいてうが登場することが明らかになりました。演じるのは元AKB48の大島優子さんです。実際のらいてうによく似ていますね。

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残念ながら「長沼智恵子」の名はありませんでしたが、ちょい役でもいいので、智恵子らしき人物程度でも登場して欲しいものです。

また、以前のこのブログで、日本女子大学校名物で、寮では智恵子が一番に乗りこなしたという自転車について書きました。やはり予想通り今週の放映で、自転車の話になるようです。ただ、あさ、女子大学校ではなく、大阪の銀行の前で練習していますね。

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本篇が駄目なら、スピンオフで、と期待していましたが、やはり先頃発表されたスピンオフ(4/23・BSプレミアム)の内容は、三宅弘城さん演じる加野屋で中番頭を務める亀助が主人公の物語で、女子大学校創立前の話だそうです。


ところで、すでに何度か登場していますが、若い頃の光雲と縁の深い女性も、重要な役どころで出ています。明日はその辺を。


【折々の歌と句・光太郎】

雨降れば羅馬はくらし桃の花       明治42年(1909) 光太郎27歳

「羅馬」は「ローマ」の漢字表記です。

ローマを含むイタリアでは、昨日、3月8日は「ミモザの日」だったそうです。男性が日ごろの感謝の意を込めて、女性にミモザの花を贈る習慣があるとか。

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当方自宅兼事務所の庭のミモザも咲き始めました。

昨日は、同時に「国際女性デー」でもあったそうです。国連主導で、女性の平等な社会参画などが呼び掛けられています。そう考えると、100年以上前の日本で、すでにそうした動きを進めていた広岡浅子や平塚らいてうの先駆性は、やはり凄いことだったのだと思います。