昨日の『岩手日日新聞』さんに、以下の記事が出ました。 

光太郎の新たな資料 住民との集合写真 安藤さん(太田)、市に寄贈

 花巻市に疎開した彫刻家で詩人の003高村光太郎(1883~1956年)の新たな資料が26日、市に寄贈された。住民との交流を示す集合写真で、関係者は貴重な資料の発見を喜ぶとともに、光太郎に関する資料について新たな情報提供に期待を寄せている。
 寄贈したのは、同市太田の安藤幸子さん(78)。2015年10月に開かれた光太郎に関する太田地区振興会の勉強会をきっかけに、安藤さんが自宅で光太郎の写真を見たことを思い出し、母親アンさん(故人)のアルバムから見つけた。高村光太郎記念館の市川清志館長に拡大した写真を自宅で手渡した。
 当時の太田医院と思われる建物を背景に撮影された写真で、中央に光太郎が写っているほか、同医院の関係者や旧太田村役場職員らと共に、アンさんの姿も納められている。
 光太郎は1945年5月から52年10月まで市内太田地区に疎開していた。花巻高村光太郎記念会事務局企画担当の高橋卓也さん(39)は「手にしたブッシュハットを見ると、撮影されたのは疎開後半の頃では。報道関係など公の写真は多いが、当時は写真機を持っている人が少ないため貴重なスナップ写真。地域の人々との交流を裏付ける資料。光太郎は各地で講演を行っているので、写真が残っているのでは。これをきっかけに、新たな情報提供を期待したい」と話している。
 安藤さんは「中学生の頃に友達と光太郎先生の山荘にお邪魔した記憶がある。玄関先からたくさんの本が積まれていた。そんなに偉い先生とは思っていなかった」と当時に思いを寄せている。
 市川館長は「埋もれている資料が見つかって良かった。光太郎についての地元の顕彰活動を一緒に盛り上げたい」と話している。同館では写真資料を保管し、撮影年代や住民を特定したい考え。


ときおりこういうケースがあって、ありがたいかぎりです。特に光太郎の岩手時代(昭和20年=1945~27年=1952)の写真、書、書簡類はまだまだあちこちに埋もれているはずです。光太郎が居た花巻周辺や、たびたび訪れた盛岡方面など。また、講演などで東北各地に足跡が残っていますので、そういう所でも。

実は当方が昨年暮れに訪れた秋田の横手にも書が複数残っているらしく、時間を見つけて調査に行こうと思っております。光太郎は昭和25年(1950)の3月10日から12日にかけ、講演のため横手を訪れています。

「うちにも光太郎先生の写真やら書やらがある」という方は、花巻の高村光太郎記念館、または当方までご一報いただければ幸いです。
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【折々の歌と句・光太郎】

山の鳥うその来てなく武蔵野のあかるき春となりにけらしな
制作年不詳

大正14年(1925)制作の木彫「うそ鳥」に関わると考えられますが、細かな制作年は不詳です。

「なりにけらしな」は「なったに違いない」。明治生まれなので、ある意味当然かも知れませんが、こうした古語に対する光太郎の知識や、自然にそれを使えるところには舌を巻かされます。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。