一昨日拝観した、神奈川県立県立近代美術館・鎌倉館さんの最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」レポートの2回目です。

水沢勉館長のトークを聞き終え、いよいよ展示を拝見しました。

光太郎作品は2点。

2階の第一展示室に入ってすぐ、油絵の「上高地風景」(大正2年=1913)。下記はNHKさんの「日曜美術館」から採らせていただきました。左端が「上高地風景」です。

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智恵子との婚約を果たした信州上高地での作品です。昨年3月、山岳雑誌『岳人』さんの特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」の一部を執筆させていただきましたが、その中でこの絵も紹介しました。この際には、同館からポジをお借りして誌面を飾らせていただきました。

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「こんなに大きな絵だったっけか?」というのが正直な感想でした。この絵の実物を見るのは4度目くらいのはずですが、過去3回は他の光太郎絵画と共に展示されたのを見ており、この絵だけの印象はあまり残っていませんでした。

改めてよく観てみますと、フォービズム風の荒い筆触、色遣いの中にも繊細な神経が行き届いており、さらにやはり画面の大きさからくる迫力に圧倒されました。


続いてブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)。光太郎が敬愛したロダンの「花子の首」と同じコーナーに並んでいました。光太郎メインの企画展で、ロダン作品を参考出品することはよくありますが、それとは違った主旨で2人の作品が同じコーナーに並んでいることに感慨を覚えました。しかも、モデルの女優・花子はロダンのモデルを務めたほとんど唯一の日本人ということで、光太郎は昭和2年(1927)、郷里の岐阜に花子を訪ね、その模様を評伝『ロダン』に書き残しています。

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前列中央が「裸婦坐像」、左端が「花子の首」です。その間にはブールデル、後列には中原悌次郎など、やはりロダン、光太郎と縁の深い作者の作が並んでいます。


その他、柳敬助、梅原龍三郎、松本竣介、難波田龍起といった、光太郎と縁の深かった人々の作品なども興味深く拝見しました。


再び1階に下りました。館長トークの間に、こんなコーナーがあったのに気付いていて、そちらを拝見しました。

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来館者の皆さんが、自由にメッセージを書き込み、それが掲示されています。

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「日曜美術館」にもそういう部分がありましたが、スタッフ以外にもこの館に対する深い思い入れを持つ方が、非常にたくさんいらっしゃるようです。

こんな書き込みも。「裸婦坐像」についてでしょう。

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企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」、1/31(日)までです。そして最終日には閉館を迎えます。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】無題

少女子は兎の族(やから)ま裸になりてきよとんと坐りたるかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

「少女子」は「おとめご」。時期的に少しずれていますが、「裸婦坐像」制作に関わるかもしれません。

詩人の真壁仁による「高村先生の彫刻」(昭和27年=1952)には次のように記されています。

「裸婦」はよく夫人をモデルにした作と思われているが、実際は百合子という横浜のチャブ屋の女である。チャブ屋の生活を嫌ってその女が逃げ出してきたとき、先生は一時かくまってあげた。そのとき、モデルになるかと言ったら、なるというので、先生は彫刻にこさえ、夫人は油絵に描いた。そんな商売の女と思えないほどいいからだだったそうである。