日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。このブログでもたびたびご紹介しています。


光雲作の木彫が時折出品され、1,000万円単位で落札されています。

さて、今月30日開催の、「近代美術、近代陶芸PARTⅡ」で、またもや光雲作の木彫が出品されています。

Lot.43 高村 光雲 本居宣長翁木彫無題

H21.1cm  木彫

底部に刻名「高村光雲刀」

高村豊周箱    高村達鑑定書付

¥1,000,000 ~¥1,500,000


こちらのオークションに出る光雲作品としては、格安です。弟子の手がかなり入った工房作なのかも知れません。それにしても、画像で見る限りでも見事な作だとは思いますが。


もう1件、別件です。

一昨日の山口県の地方紙『山口新聞』さんに掲載された一面コラム「四季風」で、光太郎に触れて下さいました。 

四季風 2016年1月22日(金)

粉雪が舞い、雪景色が目の前に広がる街の中で、葉ひとつ無い、真っ裸の街路樹が寒さに震えているのに気づかされた。裸木の風景は随分前からあったのに、底寒さが心象風景を変えるのだろう
▼真冬の当たり前のような寒さが体の奥深くにしみ込み、暖冬慣れした体には異様な冷えに感じられる。日差しはあるのに色は薄く、発する熱がまるで感じられない。でも、これが四季のある日本の冬なのだと思えば、どこかほっとする自分がいる
▼肩をすぼめて街行く人たちの姿を見ながら、冬はこうでなくてはと、子供のようにうれしくなる。「想定外」の気象に泣かされ、四季感が薄くなるなかでの、予定調和の冬らしさ
▼昨日は二十四節気の大寒だった。一日だけをさす意味もあれば、立春までの半月を大寒とする解釈もある。どちらにしても日本列島の寒さが最も厳しくなるころ。「きっぱりと冬が来た」(高村光太郎)のである
▼俳句でよく見る「冬ざれ」という言葉がある。木の葉もなく物寂しく感じられる冬時分、と辞書にある。突き刺すような荒涼感が広がる印象だが、春に向けての気力を、じっと静かに蓄えるときなのだと捉えるなら、まだ続く厳寒も受け入れやすい。(佐)

雪国の皆さんには怒られてしまいそうですが、たしかにここに来て、ようやく冬らしくなってきたような気がします。それでも冬至を過ぎて約1ヶ月。確実に日は長くなっていますし、晴れた時の日ざしには、暖かさが感じられます。春遠からじ、ですね。

当方の犬の散歩コースでも、蝋梅はもう満開ですし、普通の梅もかなり咲き始めました。

イメージ 2

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というわけで……

【折々の歌と句・光太郎】

冬かけてまづ春に匂ふうめの花春のみ神のしるべなるらむ
明治32年(1899)頃 光太郎17歳