先週土曜日、九段下の玉川堂さん、新宿の中村屋サロン美術館さんと制覇し、最終目的地、文京区千駄木の区立森鷗外記念館さんに向かいました。

先月からコレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」が始まっており、さらにこの日は、関連行事として東京大学大学院教授の今橋映子氏による講演「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」があったためです。

ただ、最寄りの千駄木駅には早めに着いてしまいました。そこで、団子坂を上り、いったん鷗外記念館前を通り過ぎて、近くのコンビニに。ここは店頭に灰皿が置いてあり、煙草吸いには有り難い配慮です。ちなみに当方、都内のよく歩く範囲では、どこに喫煙所があるか、かなり頭に入っています。シルクロードを旅するキャラバンがオアシスの位置を頭に入れているのと同じです(笑)。

さらに少し行くと、道の右側に瀟洒なマンションが建っています。少し前まではNTTさんのビルだったところですが、こんな案内板が設置されています。

イメージ 3

イメージ 4

「「青鞜社」発祥の地」。明治44年(1911)、平塚らいてうを中心に創刊された我が国初の女性だけによる雑誌『青鞜』創刊号―その表紙絵は智恵子の作品―が、ここで編集されました。元々は国文学者・物集高見の屋敷があったところで、物集の娘・和子が青鞜社員だったため、自宅の一室を編集室にしたというわけです。

案内板には光太郎智恵子の名も記され、それを読みつつ、思いを馳せました。

ちなみに光太郎智恵子が暮らしたアトリエ跡や、現在も高村家の方がが住む光雲の旧宅もほど近いのですが、そこまで足をのばす時間もなく、鷗外記念館に戻りました。こちらは元の鷗外邸「観潮楼」のあった場所に建てられています。

イメージ 1

イメージ 2

講演会の前に、地下の展示室に。常設の鷗外の展示と、コレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」をじっくり拝見しました。

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

鷗外はもちろん、杢太郎も光太郎と縁の深い人物でした。光太郎の方が杢太郎より2歳年長です。

杢太郎は本名・太田正雄。静岡・伊藤の出身です。医学を志し、旧制一高から東京帝国大学に進みましたが、その間、文学に対する熱情も強く、明治40年(1907)頃から鷗外が観潮楼で開いた歌会に参加、明治42年(1909)からは雑誌『スバル』の編集にあたります。この年、欧米留学から帰国した光太郎も『スバル』の主要執筆者の一人となり、二人の交流が始まります。さらに、芸術運動「パンの会」。鎧橋のメイゾン鴻乃巣などで、文学、美術、演劇などに携わる若き芸術家達が酒を飲みながら怪気炎を上げたものですが、光太郎、杢太郎、ともに発起人に名を連ねています。

展示は『スバル』や杢太郎の著書、自筆資料などなど。下に出品目録を載せますが、途中で展示替えがあり、今週から一部変わっているはずです。

イメージ 8

イメージ 9

その後、2階の講座室へ。こちらが講演会場です。

講師の今橋映子氏は、比較文化学がご専門。特に明治大正期の日仏両国の文化的なつながりを研究されています。『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房・平成5年=1993)というご著書があり、「第2部 憧憬のゆくえ―近代日本人作家のパリ体験」という項の第1章が「乖離の様相―高村光太郎」。また、昨秋には明星研究会さん主催のシンポジウム「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎」のパネリストもなさっていました。

現在、美術史家の岩村透についてのご研究を進められているそうで、数年後には新たなご著書として世に問われるそうです。岩村は、光太郎が在学中、東京美術学校で教鞭を執っており、光太郎に西洋留学を強く勧めた人物です。前任者が鷗外、さらに杢太郎ともつながりがあり、講演では鷗外と杢太郎の関連以外にも、岩村や光太郎にも触れられていて、興味深く拝聴しました。

それにしても、昨日書いた斎藤与里にしてもそうですが、杢太郎も、一般には忘れ去られかけつつある芸術家です。もっともっと光が当てられていいのでは、と思います。

同時に光太郎が「忘れ去られつつある芸術家」とならないよう、もっともっと頑張らねば、と感じました。

以上、3回にわたる都内レポートを終わります。今日は当方の住む千葉県内の、その南端に近い勝浦に行って参ります。勝浦市芸術文化交流センター・キュステさんで開催中の「第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」を観て参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月26日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、どら焼きを食べました。

当日の日記の一節です。

曇、少々むしあつし。 朝、抹茶、濱田先生に昨日もら(っ)たドラ焼を甘味とす。

別に、どら焼きを食べるのは不思議でも何でもないのですが、問題はその量です。前日の日記の一節にはこうあります。

学校にて郵便物授受。 濱田先生と談話。同氏は哲学専攻の由。長坂町に滞在との事。(略)濱田氏よりドラ焼20数個もらふ。

まさか20数個全部を光太郎一人で食べたとも考えにくいのですが、「おすそ分けをした」的な記述が日記には見あたりません(笑)。