一昨日は、東京都内に出かけ、3件の用事を済ませて参りました。

最初の目的地は、九段下。創業文政年間(1818~1831)という老舗の書道用品店、玉川堂(ぎょくせんどう)さんでした。

イメージ 7


5月に千葉県流山市で開催された、書家・後閑寅雄(号・恵楓)氏の作品展で、参考出品として、光太郎を含む古今の名筆が並んでいました。その中で、光太郎の短歌が書かれた短冊があったのですが、驚いたことに、書かれていた短歌が、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。そこで、後閑氏に、短冊の所有者が玉川堂さんであることをご教示いただき、連絡を取って、拝見しに行って参りました。玉川堂さんでは、売り物としてではなく、名筆のコレクションの一つとして所蔵されているとのことでした。

お店に着き、二階の事務所に通され、早速、拝見しました。お忙しい中、社長さんが直々に対応して下さいました。

イメージ 1


金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかに/かけていろいろ凉かぜ000の吹く」と読めます。画像ではわかりにくいのですが、最後に光太郎がよく使った「光」一時を丸で囲む署名も入っています。

黒地に文字は白、というより銀ですが、これは字の周りを墨で囲んで塗りつぶす「籠書き」という手法です。光太郎はこの手法を得意としており、書籍の装幀、題字などでも同じことをやっています。また、短冊でも籠書きのものが遺っています。

右の画像は明治44年(1911)頃に書かれたもので、やはり短歌が書かれています。こちらの短歌は滞米中の作品で、「天そそる家をつくるとをみなより/うまれし子等はけふも石きる」と読みます。

てっぺんには墨絵で石造りの建築が描かれています。玉川堂さんの短冊も、同じ位置に墨絵の風景画が入っており、ほとんど同じ時期のものと推定できます。


001

光太郎の籠書きについては、実弟の豊周が書き残しています。

 兄がともかく兄らしい個性のある字を書きはじめたのはヨーロッパから帰ってからで、その頃から以後しばらくの兄の短冊には、よく籠書きというのが、字のへりをとって外側の部分を墨で塗りつぶし、中を、銀短冊なら銀に塗り残す変った書き方が現れて来る。(『光太郎回想』 昭和37年=1962)

また、作家・江口渙の回想にも。

 高村光太郎も……片手に短冊をもちながら、まるで彫刻の刀でも使うようなしかたで、はなはだ丹念に書いている。よく見ると書いているのは普通の字ではない。ちょうちん屋などがよくやるかき方の俗にかご字といわれるものである。まわりを線でほそくかいて中を白ぬきにするあの書体である。……かご字で一とおり歌を書き上げると、こんどは字の外がわを、一そう丹念に墨でぬりはじめた。……やがて出来上がったのを見ると、銀短冊はすっかり黒短冊にかわっていた。そして、はじめにかご字で書かれた歌だけが浮き上がるように銀色に光っていた。(「わが文学半生記」 昭和28年=1953)

まさにこれらの短冊そのままの描写です。ただ、江口の回想は大正中期、新詩社新年歌会での一コマですので、若干、時期がずれています。

ちなみに旧蔵者の方は、明治43年(1910)に光太郎が神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」で購入したとおっしゃっていたそうです。さもありなん、です。


それから、さらに驚いたことに、玉川堂さんではもう1点、光太郎作品をお持ちでした。そちらは短冊ではなく、長い書簡です。

イメージ 4

イメージ 5  イメージ 6

大正元年(1912)10月14日、智恵子の妹・長沼セキに宛てたものです。封筒もきちんと遺っていました。セキに宛てた光太郎からの書簡は7通が既に知られており、『高村光太郎全集』に収められていますが、こちらは未収録でした。玉川堂さんには『高村光太郎全集』は持って行きませんでしたが、セキ宛の書簡はだいたい頭に入っており、見た瞬間にこれは新発見だ、とわかりました。念のため自宅兼事務所に帰ってから調べてみると、その通りでした。

大正元年(1912)というと、智恵子とはまだ結婚前で、愛を確かめ合った犬吠埼の写生旅行から帰ったのが9月4日、この手紙が書かれた翌10月15日から、斎藤与里、岸田劉生等と興したヒユウザン会(のちフユウザン会)の第一回展が京橋の読売新聞社で開幕します。この手紙にも明日から同展が始まるため、準備に追われていることが記されています。

当会顧問の北川太一先生にもお骨折りいただいて解読中ですが、高村光太郎研究会から来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にて詳細を発表します。


それにしても、短冊といい、書簡といい、関東大震災に太平洋戦争の空襲をくぐり抜け、よくぞ残ってくれたと、感慨深いものがありました。まだまだほうぼうにこうした貴重な資料が眠っていると思われます。それらを見つけ出し、光太郎の全貌を明らかにしていくのが使命と考えております。ご協力いただければ幸いです。

ご協力、といえば、玉川堂さん。貴重な資料を拝見させくださり、公表もOK、さらに展覧会等に貸し出すのもかまわないとおっしゃって下さっています。頭が下がります。

それにひきかえ当方は、手土産に当方の住まう千葉佐原銘菓の最中を持参したのですが、新発見の資料を前に頭に血が上り、お渡しするのを忘れて、いったん玉川堂さんを出てしまいました。九段下の駅まで行って、「しまったあああああ!」と気付き、玉川堂さんまで飛んで帰りました。お店に入ると社長さんが「あれっ」というお顔で「忘れ物ですか?」とおっしゃいます。そこで当方、「そうです、忘れ物です。こいつをお渡しするのを忘れてました」。店員さんにも笑われてしまいました(汗)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月24日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、截金師の西出大三に葉書を書きました。

おてがみ忝くいただきました。貴下も文字を彫つて居られし由、潺湲楼は九月一ぱいかかるでせう。これはむしろ鑿で文字を書くといつたやうな彫り方です。原字には拘泥せずにやります。 今夏は夏まけの気味にて四度高熱を出しましたが、その都度二三日の休養で恢復しました。 旧盆過ぎて稲の穂も垂れはじめ、山にやうやく秋が近づいてきました、

「潺湲楼」は昭和20年(1945)、終戦後に光太郎が一時厄介になっていた花巻町の佐藤隆房医師宅の離れです。「潺湲」は水のせせらぎを表し、眼下に豊沢川の清流を望むことから、光太郎が命名しました。佐藤医師は「潺湲楼」の文字を彫った扁額を光太郎に依頼、この葉書はそれに関わります。

しかし、結局この扁額は完成せず、文字を下書きにした紙が貼られたまま、現在は花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。やっつけ仕事をせず、納得いくように出来なければやらない、という光太郎の性格が表れています。