昨日は急遽、東京上野に行って参りました。東京都美術館さんで開催中の、「第103回 日本水彩展」観覧のためです。
光雲の令孫、光太郎の令甥にあたる藤岡光彦氏からご案内をいただきました。氏は光太郎の実弟にして藤岡家に養子に行った故・藤岡孟彦氏の子息。ほぼ毎年、連翹忌にご参加下さっています。
氏は趣味として水彩画に取り組まれていて、このたび、「第103回日本水彩展」入選を果たされ、東京都美術館さんにて展示ということで、招待券を戴いてしまいました。調べてみると、同展は日本水彩画会さんの主催。この会は大正2年(1913)、光太郎と親交のあった石井柏亭や南薫造らの創設した団体でした。「これは行かなきゃなるまい」と思い、行ってきた次第です。今月9日までの会期です。
東京はまだ梅雨入り前、さわやかな天気でした。それに誘われてか、上野の山は多くの人出でした。

会場は地下でした。案内の矢印を頼りに進むと「日本水彩展」のポスターが。「おお、あそこか」と思って近づくと、隣のポスターは「大調和展」。驚きました。同展は光太郎と親交の深かった武者小路実篤の肝いりで始まったもので、昭和2年(1927)の第一回展、翌年の第二回展に光太郎が彫刻を出品しています。実は現代まで続いているというのを存じませんでした。汗顔の至りです。

さて、「日本水彩展」。入り口近くに出品者名簿(一人一人の展示場所が書かれています)が貼ってあり、有り難い配慮でした。申し訳ありませんが、この手の公募展は出品点数が多く、全部をじっくり見る余裕がありません。

藤岡氏のお名前を見つけ、一目散に第16室に向かいます。

こちらが第16室。氏の作品は、事前に薔薇の絵だと聞いておりましたので、すぐに解りました。



素晴らしい!
こういう言い方は失礼かも知れませんが、氏は御年90に近いはずなのですが、それを感じさせない若々しい感性に脱帽です。やはり芸術一家高村家のDNAがなせる業でしょうか。
ちなみに氏のお父様、故・藤岡孟彦氏はこちら。


比較的面長の風貌は、実兄・光太郎とよく似ています。
旧制一高から東大農学部に学び、植物学を修められました。そのころ、明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。
三重高等農林学校講師、兵庫県農業試験場などを経て、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。鯉淵学園では、十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した光太郎が、昭和27年(1952)に講演を行っています。この時の筆録は翌年の『農業茨城』という雑誌に掲載されました。


孟彦は帰京直前の光太郎を花巻郊外太田村に訪ねています。その際に、東京に戻るなら、自分の学校で講演をしてくれるよう依頼したようです。
さて、子息光彦氏の作品を拝観後、東京都美術館さんをあとにしました。企画展「大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史」が開催中ですが、混んでいそうなのでやめました。「大調和展」も、パーテーションの隙間からちらっと拝見したのみでした。

そして、近くの東京国立博物館さんへ。

先週放映された「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」を観て、また藤岡氏のお爺さま、光雲の「老猿」を観たくなったので、上野に来たついでもあり、観て参りました。
約一年ぶりに拝見しましたが、何度観てもいいものです。







やはり「日曜美術館」の影響でしょうか。「老猿」の周りには黒山の人だかりでした。同じ展示室内の光太郎作の「老人の首」はあまり足を止める人もなく……(涙)。
ところで、「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」。今夜8時から、NHKEテレさんで再放送です。ご覧になっていない方、いや、先週ご覧になった方も、もう一度ぜひどうぞ。
こちらでは特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」が開催中ですが、何と3時間待ちだそうで、やはり断念。その代わりと言っては何ですが、「上野に来たついでだ」と思い、やはり光雲の手になる「西郷隆盛像」も観て参りました。




考えてみると、西郷さんをちゃんと観るのも久しぶりでした。
というわけで、有意義な上野散策でした。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月7日
昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエで花巻郊外太田村山口の駿河重次郎に葉書を書きました。
椎茸たくさん送つて下さつてありがたく存じます、東京は毎日雨がふつて居ます、 山の小屋も雨がさかんにもつて居るだらうと思つて居ます、 彫刻の仕事も今型どりを終りかけてゐます、とりあへず御礼まで、
駿河は光太郎が暮らした山小屋周辺の土地を提供してくれた人物で、農作業についても光太郎に懇切丁寧に教えてくれました。光太郎と年も近く、山口地区では最も光太郎が親しく交わった一人でした。めったに他人を呼び捨てにしない光太郎が、親しみを込めて「重次郎」と呼び捨てにしていたそうです。

こちらは翌年秋、十和田湖畔の裸婦群像完成後、一時的に太田村に帰った時の駿河家でのショットです。
ところで、先日、上記葉書が書かれた光太郎の終焉の地・中野のアトリエを訪問して参りました。明日はそちらをレポートします。