東北から帰ってきてからも、あちこち出かけています。

一昨日は、都下小平の武蔵野美術大学美術館さんに出かけて参りました。以前にご紹介した「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」が始まりました。

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他にも企画展が開催されており、「近代日本彫刻展」は一室のみでの開催でした。

光太郎作品としては、木彫の「白文鳥」(昭和5年=1930頃)、ブロンズの「手」(大正7年=1918頃)が2種類、展示されています。


「白文鳥」は、一昨年に全国3館を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でお借りして以来、約1年半ぶりに観ました。

愛くるしい彫刻です。分類すれば写実彫刻なのですが、全体にざっくりした彫刻刀の痕を残しており、完璧な写実ではありません。また、光雲のように羽毛の一本一本を様式化して彫るということもやって居らず、ロダンに学んだ粘土での表現を木彫に反映させているのがよくわかります。

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しかし、写実以上に写実。生命力に溢れています。

今回は、この「白文鳥」を入れていた共箱も展示されていました。こちらは初めて観ました。

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さらに「手」が2点。上野の朝倉彫塑館さん(左)と、竹橋の東京国立近代美術館さん(右)所蔵のものです。以前にも書きましたが、この2点は確実に大正期の鋳造です。また、木製の台座も光太郎の制作。2つ並んでいるのを観るのは初めてで、今まで気づいていませんでしたが、台座の形がかなり異なっています。

竹橋のものは意外と台座の板の部分が薄タイプです(右の画像)。ところが朝倉彫塑館さん所蔵のものは、板の部分の厚さがこの2倍近くあります(左)。どちらも面の処理の仕方が、「白文鳥」とよく似ており、この台座の制作が後の木彫作品(「蟬」「蓮根」など)を多く作るようになった一つの契機というのがうなずけます。

ちなみに全国各地にある「手」の台座は、高村家所蔵のものを模しています。こちらも光太郎作の台座と推定され、刳型の付いた装飾的な台座です。

図録には、ブロンズをはずした台座のみの写真も載っています。ただし、図録の印刷が間に合わなかったそうで、受付で名簿に住所氏名等を書き、代金を支払って、後ほど郵送していただくシステムになっていました。

こちらは8月16日まで開催されています。ただし、東京国立近代美術館さんの「手」は6月20日までの展示だそうです。


もう1件、展覧会レポートを。というか、まだこのブログではご紹介していませんでしたので紹介も兼ねます

後閑寅雄喜寿チャリティ書画展

開催日 2015年5月27日(水) ~ 5月31日(日)
時 間 9時~21時(ただし小ギャラリーは16時30分まで。最終日は16時まで)
会 場 流山市生涯学習センター 
     千葉県流山市中110 つくばエクスプレス(TX)流山セントラルパーク駅3分
入場無料
 
 流山市にお住いの書道家。学校サポートボランティアによる毛筆授業の指導補助を長年続けられています。文字を読む、書くということから離れつつある中で学校教育における書道の指導の重要性が高まり、市民との協働による日本の伝統文化である毛筆授業を平成12年11月から続け、毎年約800人の児童を対象に通年で約100回の授業補助を行っています。平成26年度には流山市育成会議連絡協議会から青少年の育成功労者として表彰されました。

参考借用陳列敬仰作品(小ギャラリー)
西川春洞、西川寧、浅見筧洞、新井光風、田中東竹、牛窪梧十、青山杉雨、成瀬映山、梅原清山、有岡陖崖、金子鷗亭、金子卓義、佐藤氷峰、金子大蔵、張廉卿、宮島詠士、上條信山、田中節山、市澤静山、高塚竹堂、今関脩竹、清水透石、中山竹径、佐藤竹南、深井竹平、尾上紫舟、日比野五鳳、杉岡華邨、高木東扇、高木厚人、池田桂鳳、榎倉香邨、小林章夫、今井凌雪、村上三島、古谷蒼韻、斗盦、和中簡堂、鈴木槃山、渡辺大寛、内藤富卿、黒野陶山、松井如流、鈴木桐華、野口白汀、小木太法、宮沢賢治、高村光太郎、村上鬼城、中村不析、北村西望、殿村藍田、清水比庵、山本直良、与謝野晶子、山手樹一郎、吉田茂、片山哲、他

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流山在住の書家、後閑(ごかん)寅雄(号・恵楓)氏の作品展です。

参考出品ということで、古今の書もたくさん展示され、その中に光太郎の名があったので、観に行きました。


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後閑氏の作品は素晴らしいものでした。一時流行った、書なのか絵画なのか解らない、墨痕の形のおもしろさだけに頼った「読めない書」ではなく、また、これは現代でもよくあるのですが、書かれている言葉のみに頼り、造型性の薄い書(「誰々の詩句を書きました」というだけのもの)でもありませんでした。

そして参考借用陳列敬仰作品。光太郎の書も展示されているとはいえ、比較的新しく、類例の多い戦後の色紙か何かだろうと勝手に思いこんでいて、軽い気持ちで観に行ったのですが、実際に眼にし、仰天しました。

展示されていた光太郎作品は、短歌が書かれた短冊でした無題が、おそらく明治末のものです。

右の画像は、以前から知られている短冊ですが、よく似ています。こちらは明治44年(1911)頃のものです。「天そそる家をつくるとをみなよりうまれし子等は今日も石切る」と読みます。

白黒反転で、一見、版画のように見えますね。しかし、これは手書きです。といっても、黒地に白で書いているのではなく、字の周りを墨で囲んで塗りつぶしているのです。この手法を「籠書き」と言います。光太郎はこの手法を得意としており、書籍の装幀、題字などでも同じことをやっています。

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左は明治45年(1912)の雑誌「劇と詩」、右は同44年(1911)の同じく『創作』の、それぞれ表紙です。

今回展示されていた短冊も、この籠書きの手法。しかも、「天そそる……」の短冊同様、上部に墨絵が描かれており、ますます同じ時期のものと思われました。贋作特有の反吐が出そうないやらしさは感じられず、間違いないものだと思います。第一、こうした手法のものでは贋作の作りようがありません。

さらに驚くべきことに、書かれている短歌が、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。「金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜのふく」と読めました。眼にした段階で「こんな短歌、記憶にないぞ」と思ったのですが、その場では資料がありません。急いで自宅兼事務所に帰り、調べてみると、はたして、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。こういうこともあるのですね。

こちらは東京の書道用品店さんの所有だそうで、近いうちに行って手にとって見せていただこうと考えております。

ところで、参考借用陳列敬仰作品、他にはどんな物が並んでいたかというと、他の光太郎のものは、複製が1点。関連する人物として、与謝野晶子の色紙、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の複製、それから昨年個展を拝見した金子大蔵氏の作品も並んでいました。氏は好んで光太郎の詩句を取り上げられていますが、やはり光太郎の詩「最低にして最高の道」の一節を書かれていました。

こちらの展覧会は31日(日)までです。会期が短いのが残念です。


武蔵野美術大学さんともども、ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月29日

昭和26年(1951)の今日、55年ぶりに手に取った少年時代の彫刻に墨書揮毫をしました。

彫刻は木彫レリーフの習作「青い葡萄」。明治29年(1896)、数え14歳の作品です。

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これを詩人の菊岡久利が入手、花巻郊外太田村の光太郎の元に送りました。以下、菊岡の回想。

 僕はそれを鎌倉の古物店で見つけたのだが、人々は、まだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思つたらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。(略)当時岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来て、レリーフの裏に、
 五十五年
 青いぶだうが
 まだあをい
と詩を書いてよこしてくれたものだ。

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こちらが裏面。後半の「明治廿九年八月七日 彫刻試験 高村光太郎」は明治29年(1896)の署名です。