5月16日土曜日、奥州市水沢図書館さんをあとに、同じ奥州市内の米里人首地区にレンタカーを走らせました。光太郎と親交のあった詩人の佐伯郁郎の生家、人首文庫さんが目的地です。

こちらには、佐伯郁郎の厖大な遺品が収蔵されており、その中に佐伯に宛てた光太郎の書簡が複数あって、10年ほど前に当主の佐伯研二氏にコピーを送っていただきました。それらの現物を見てみたい、というのと、もしかすると他にも光太郎関連資料があるのでは、という思いがありました。結果的にそれが当たりました。

さて、大船渡方面につながる盛街道を東へ、山あいののどかな風景の中を走ること30分あまり、目指す人首地区に着きました。

ここは宮澤賢治の作品に登場する種山ヶ原の麓に位置し、賢治もたびたび訪れたそうで、賢治ゆかりの場所の大きな案内図が道端に建っていました。

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目的地の人首文庫さんは地区のほぼ中心、人首城跡の入り口にありました。江戸時代には人首城主・沼辺家の家老職、廷内に学問所を併設していたというだけあって、豪壮な構えでした。

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しかし、当方が着いた時には、お留守でした。こちらの電話番号を把握して居らず、また、旅の途中ゆえ、何らかのトラブルで訪問できなくなる危険もなきにしもあらずでしたので、事前に来意は告げてありませんでした。ただ、門が開いているので、近くに出かけているだけだろうと思い、しばし門前で待たせていただきました。やがて佐伯研二氏ご夫妻がご帰宅。推測通り、お買い物に出かけていたとのこと。

門をくぐって敷地内に入ると、立派な庭園、いかにも格式のある母屋、そして蔵が何棟もあって驚きました。

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樹齢200年という桜の木もあり、花の時期にはものすごいことになるだろうな、と思いました。
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早速、資料を収蔵してある蔵を拝見しました。

一歩入って驚愕しました。天井まで届く複数の大きな書棚に溢れんばかりの書物、展示ケースや壁には書幅や色紙などの類、しかもそれが一室でなく、何部屋もあるようです。

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佐伯氏は、突然の来訪にもかかわらず、懇切ご丁寧にご説明下さり、恐縮でした。「こんなものもあります」と、次々にいろいろなものを出して見せて下さいました。

佐伯郁郎は戦前に内務省に入省、戦時中は情報局文芸課に勤務、検閲の任にあたっていたという特異な経歴があり、非常に文壇内で顔が広かったようです。有名どころからマイナー、マニアックな文学者まで、著書や書簡、肉筆原稿、書など、いったいどれだけあるんだ、という感じでした。

こちらは光太郎の書。

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先日、埼玉の田口弘氏のお宅で拝見したのと似た、若干粗悪な色紙に書かれています。おそらく物資の乏しかった戦後の物でしょう。

「針は北をさす」という句は、初めて目にしました。類似の例として「いくら廻されても針は天極をさす」という揮毫は何種類かあるのですが、「北をさす」という揮毫は類例が確認できていません。岩手という北の大地に流れてきての思いが込められているのかも知れません。

こちらは光太郎から佐伯郁郎宛の葉書。以前にコピーを送っていただいたものでした。

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これら以外にも、『全集』等未収録の光太郎からの葉書が2通、ありました。昭和6年(1931)の、佐伯の第一詩集『北の貌』、同10年(1935)の第二詩集『極圏』の、ともに受贈に対する礼状でした。それぞれ50名ほどでしょうか、他の文学者たちからの礼状とともに、一括してまとめられていました。

昨日ご紹介した、水沢図書館での智恵子資料などと合わせ、まだまだ岩手には未知のお宝が眠っていたということで、大興奮でした。

また、光太郎とも親交のあった文学者たち(特に詩人)の資料も数多くあり、興味深く拝見しました。以前に連翹忌にご参加くださっている詩人の宮尾壽里子様からいただいた文芸同人誌『青い花』第79号に掲載されていた柏木勇一氏の「第一次「青い花」創刊の頃の中原中也」という評論で紹介されていた萩原朔太郎と中原中也、そろっての署名など。

書簡類も、それぞれの文学者の全集に未収のものがほとんどのように思われます。近代詩人の研究をされている方、ぜひ一度、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月23日

昭和23年(1948)の今日、詩人の大上敬義に詩集受贈の礼状を書きました。

北海道の更科源蔵氏から貴著詩集「愁ひの実」を回送され、又貴下のおてがみを昨日いただきました。御恵贈ありがたく存じます。今は畑のいちばん忙しい時なので、中々読んでゐられませんが、そのうち繙読するのをたのしみに存じます。

上記の佐伯郁郎との親交も、こうした詩集受贈から始まっています。

確認できている光太郎書簡の中には、この手のものがかなり多く存在します。光太郎は詩集などを贈られると、相手が無名の詩人であっても、貰って貰いっぱなしではなく、必ずと言っていいほど礼状を書いています。

この手のもの、やはりまだまだ眠っている物も多数存在するはずです。「うちのおじいさんはあまり有名ではなかったけど、詩人だった」などという方、捜してみて下さい。