5月15日、第58回高村祭終了後、生前の光太郎を知る人々からお話を伺うことが出来ました。

まず、JR東北本線花巻駅近くにお住まいの、内村義夫さん。内村さんの奥さんのお父様が、故・内村皓一氏。平成5年(1993)に亡くなった写真家で、光太郎の日記にお名前が散見されます。国内より国際的に評価され、海外のコンクールで多数の入賞歴があります。

平成21年(2009)の5月3日、地元紙『岩手日報』さんに以下の記事が載りました。

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昭和26年(1951)6月16日に、光太郎は花巻公会堂で講演を行っています。その際、同時に光太郎作詞の「初夢まりつきうた」が舞踊となり、上演されています。その「初夢まりつきうた」が収められたレコードの発見が報じられた記事でした。記事中に「一九四六(昭和二十一)年」とあるのは誤りです。

この件について詳しく調査しようと思っていたところ、内村さんと連絡が取れ、高村祭のため当方が花巻に滞在中にお会いできることになりました。内村さんは、お仕事が終わってから、わざわざ高村光太郎記念館までお越し下さいました。

事前にお願いしてあったので、レコードの現物をご持参下さいました。当時の新聞記事と一緒に額に入れて保管されているとのこと。

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記事はこちらです。クリックで拡大します。

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光太郎の講演、「初夢まりつきうた」の上演と同時に、内村皓一氏の写真展も開催されていたとのことです。

この日の光太郎日記が以下の通り。

細雨、 ひる近く花巻新報の平野智敬氏、及写真家内村皓一氏車で迎にくる。一緒に花巻行、ヤブにて中食、商工会議所の連中集まる、後公会堂行、講演一席、後舞踊見物、まりつきうた。 花巻温泉に一泊。紅葉館、皆とのむ、小田島氏、岩田氏は十一時頃辞去、平野氏、内村氏は泊る、

さて、レーベルを見て驚きました。印刷ではなく手書きです。記念館事務局の方曰く、その場で録音されたものではないか、とのこと。昭和50年代くらいまで、テープレコーダーのようにその場で録音したものをレコードにする機械が使われていたそうで、これもそうなのでは、というわけです。

ちなみに手書きの文字は以下の通り。

花巻初夢まりつき唄  作詞 高村光太郎  作曲 杵屋正邦  唄 宮田五郎  三味 杵屋正邦  小謡 梅田金太郎  打楽器 梅田勝法  ピアノ 加納時雄  

裏面のレーベルには「花巻新報社」とのみ書かれています。

ネットで調べてみると、杵屋正邦、宮田五郎という名は、当時の邦楽家としてヒットしました。花巻新報社で、中央の邦楽家を引っ張り出したようです。

先述の平成21年(2009)の記事に「劣化が進んでおり聴くことはできない」とありますが、盤が割れてしまっているわけではなく、現在の技術ならレーザー光線等で凹凸を読み取ってデジタル化することも可能らしく、そちらの手配は記念館の方にお任せすることにしました。聴くのが楽しみです。また、ひょっとすると光太郎の講演も収録されているのでは、などと期待しています。


内村さんは、他にも貴重な資料をたくさんお持ち下さいました。

光太郎から皓一氏宛の葉書2通のコピー。こちらは『高村光太郎全集』等に未収録のものです。帰ってから詳しく調べてみたところ、昭和25年(1950)2月と、27年(1952)3月のものと判明しました。

前者は、

帰つて来ましておたよりと小包とをいただきました、大好きな、しかも上質な唐辛子をお贈りいただき、忝く存じました、朝の味噌汁がどんなにたのしみか知れません、
盛岡には五日ほど居てかなりしやべりました、前後十日間ほどになり少々疲れましたが、もう恢復しました、高橋氏より「群像」の写真の原画も先日ありがたく存じました、「群像」では皆によろこばれました、

という文面で、1月13日から22日にかけ、盛岡や西山村(現・雫石町)を廻ったことが記されています。ちなみに以前にご紹介した深沢竜一氏のお宅が西山村で、この時に光太郎が2泊しています。「群像」は雑誌名。来週、他の調査と合わせて国会図書館で調査して参ります。

この時期の光太郎日記は失われているのですが、「通信事項」という郵便の授受を記したノートの2月10日の項には、「内村皓一氏へ礼ハカキ(唐からし礼)」と書かれています。


後者は、

先日はいろいろいただき、思はぬたのしい半日を過ごしました。おハガキと唐がらしと感謝。
唐がらしは早速つけものに入れます。朝鮮づけのやうに。
ここの土壌は南蕃に合はぬと見えて昨年つくつたものも殆と辛味がなく出来ました。 今雪の下でホウレン草が育つてゐることでせう。もうハンの木の花が出かかつてゐます。

とあり、3月2日の日記の、

宮澤清六氏内村皓一 氏来訪、岩手川一升豚鍋の材料いろいろもらふ。豚鍋をして岩 手川をのむ。夕方辞去。

と照応しています。

こういうパズルのピースがぴたっと合った時のような感覚は、たまりません。

さらに内村さんから、こんなものを戴きました。まったく同じものを、記念館に一つ、当方に一つ。ご自宅にあったものだそうです。

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一見、何の変哲もないただの丼です。中島誠之助氏が「いい仕事してますねー」と讃えるようなものではなく、大量生産の品のようです。

しかし、こちらの写真をご覧あれ。

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何と、光太郎の足元に写っているこちらと、同一のものです。驚きました。

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写真右端の方の模様が濃くなっているのがおわかりでしょうか。実際にこの丼もそうなっています。

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内村さんもなぜこれがご自宅にあったのかよく分からないとのことでした。写真に写っているものは、先の光太郎日記にあった豚鍋の会の際に皓一氏が持参したものかも、と思ったのですが、残念ながら写真が撮られたのが昭和26年(1951)で、豚鍋の会の前年でした。

想像するに、別の機会に皓一氏、または共通の知人(宮澤清六など)から贈られたか、たまたま花巻町の同じ店でそれぞれが購入したか、といったところでしょう。いずれにしても、光太郎ゆかりの丼ということで、大切にしたいと思います。感謝に堪えません。


内村さんとの会見後、記念館近くの公民館で、高村祭の打ち上げが行われ、当方も顔を出し、地元の皆さんと酒を酌み交わしました。

この場にも、生前の光太郎を知る方が何人もいらっしゃいました。当時山口小学校の児童だったという方々です。下は昭和24年(1949)、山口小学校の学芸会に現れたサンタクロース(光太郎)と撮った写真です。

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66年前の、右から二人目のお子さんが、こちらの方007です。面影が残っていますね。

写っている他の方のうち、既に亡くなった方もいらっしゃるそうですが、大半はご存命だそうです。

ちなみに以前もご紹介しましたが、後ろの窓から顔を出している子供は、浅沼隆さん。花巻高村光太郎記念会山口支部の中心になっている方です。お父様は山口小学校の校長先生で、貴重な光太郎回想をたくさん残されました。当方の書いた年少者向けの「乙女の像ものがたり」に「隆君」として登場させて戴きました。

皆さん口々に、「大人たちが光太郎先生は偉い人だ、と言っていたからそうなんだろうと思っていたが、子供の自分達にとっては優しい普通のおじいさんだった」とおっしゃっていました。何だか涙が出そうになりました。


この日は、大沢温泉山水閣さんに一泊。前日の鉛温泉藤三旅館さんと合わせ、明日はそのあたりをレポートします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月20日

昭和9年(1934)の今日、黄瀛詩集「瑞枝」が刊行されました。

黄瀛(こうえい)は、中国人の父と、日本人の母無題を持つ詩人。光太郎と草野心平の出会いを演出しました。

「瑞枝」には光太郎が寄せた序文、光太郎が制作した黄瀛像彫刻の写真が掲載されました。

一部抜粋します。

つつましいといへばつつましいし、のんでゐるといえばのんでゐる。黄秀才は少しどもりながら、最大級を交へぬあたりまえへの言葉でどこまで桁はづれの話をするか知れない。黄秀才の体内にある尺度は竹や金属で出来てゐない。尺度の無数の目盛からは絶えず小さな泡のやうなものが体外に向かって立ちのぼる。泡のはじけるところに黄秀才の技術的コントロオルが我にもあらず潜入する。まことに無意識哲学の裏書きみたいだ。

ちなみに今日は智恵子の誕生日ですが、そちらは2年前にご紹介しました。