一昨日からの続きで、都内レポートです。

芝増上寺新宿中村屋サロン美術館と制覇し、最終目的地が錦糸町のすみだトリフォニーホール。ここで午後7:00から「第25回 21世紀日本歌曲の潮流」というコンサートですが、ここまでの行程で、ほぼ予測どおりに時間が余っていますので、時間調整をかねて次なる目的地、永田町の国立国会図書館に向かいました。


今月末にリニューアルオープンする花巻高村光太003郎記念館のために、現在、光太郎が花巻及び花巻郊外太田村で暮らしていた昭和20年(1945)から同27年(1952)までの詳細な年譜を作成中です。その中で、昭和23年(1948)に創刊された『花巻新報』について調べるためです。

『花巻新報』の題字を光太郎が書いていることは判っていましたが、その最初の号の正確な発行日が不明でしたし、実際に書かれたその題字の画像も手許の資料に見あたっていませんでした。国会図書館で『花巻新報』が見られることがわかり、見に行った次第です。

といっても、現物はありません。現物はアメリカです。「プランゲ文庫」といって、検閲のためGHQに提出されたものが、参謀第二部のゴードン・ウィリアム・プランゲによってメリーランド大学に収められており、その中に含まれているのです。国会図書館には、そのマイクロフィルムが収蔵されています。

本館の4階に「憲政資料室」という部屋があり、そこでの閲覧になります。初めて使いましたが、パソコンと連動したデジタルリーダーという機械があり、驚きました。トリミングも自由自在で、複写ができるのです。ただし、パソコンから信号を送り、コピーは新館1階のプリントアウトカウンターで印刷してもらうのですが。

さて、目当ての『花巻新報』は昭和23年11月7日に創刊されていました。一面にははなばなしく「創刊の言葉」。しかし号数は「第76号」となっています。調べてみるとやはりこの地域で発行されていた地方紙3紙が統合されて『花巻新報』となり、統合前の1紙の号数を引き継いでいました。

光太郎が書いた題字はこちら。味のある字ですね。しかし、アメリカにある現物もおそらく状態が良くなく、それをマイクロフィルム化した上、拡大してコピーを取っていますので、あまり鮮明ではありません。004

それから、驚いたことに、この号に『高村光太郎全集』等に収録されていない、未知の光太郎の文章が掲載されていました。

さらに驚いたことに、後の号で、『高村光太郎全集』に掲載されている文章の続きの部分を見つけました。第20巻所収の「岩手は日本の背骨」という文章ですが、2回に分けて掲載されているうちの、1回分のみが『高村光太郎全集』に掲載されていて、後の部分は未収録なのです。ちなみにこちらは昭和24年(1949)の9月21日、花巻文化劇場で行われた「賢治祭」での講演筆録です。

他にも細かな点ですが、光太郎生前に活字になった記録がなかった「お祝いのことば」という詩が掲載されていたりという発見もありました。こちらは太田村の山小屋近くにあった山口小学校に贈った詩です。

来年4月刊行予定の『高村光太郎研究』で詳細を報告します。


さて、国会図書館を後にし、最終目的地の錦糸町すみだトリフォニーホールへ。

今月2日の第59回連翹忌にご参加下さいました作曲家・野村朗氏の「連作歌曲 「智恵子抄」~その愛と死と~」がプログラムに入っている「第25回 21世紀日本歌曲の潮流」というコンサートを聴いて参りました。

演奏は森山孝光様、康子様ご夫妻。お二人による生演奏は今までにも3回聴いていますし、CDやDVDも戴いているのですが、やはり素晴らしい演奏は何度聴いてもいいと思いましたし、中村屋さん同様、招待券を戴いてしまいましたし(笑)、更に云うなら、野村氏から宮澤賢治の詩に曲をつけた演奏会のお誘いを受けた際に「残念ながら光太郎がからまない演奏会に行く余裕がございません」的な返答をしてしまったので、「今度は光太郎なのになぜ来ないんだ」とお叱りを受るのが恐ろしかったというのもあります(笑)。

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

今月2日の第59回連翹忌にご参加下さいました、詩人・野澤一のご子息・俊之氏、太平洋画会の坂本富江さん、文芸誌『青い花』同人の宮尾壽里子様もいらしていました。

さて、森山夫妻の演奏。やはり素晴らしいものでした。通常、こうした演奏会の場合、曲間に拍手等はNGですが、第2曲「あどけない話」が終わったところで、会場から「ブラボー」の声と拍手。やってしまったお客さん、よほど感極まったものと思われます。実際、バリトンの孝光氏はしっかり暗譜もなされていて、伴奏の康子様ともども情感たっぷりの演奏を披露して下さいました。

最終曲「案内」は花巻郊外太田村の山小屋に亡き智恵子を案内する内容ですが、「智恵さん気に入りましたか、好きですか。」「智恵さん斯ういふところ好きでせう。」といった呼びかけの部分は、本当に光太郎が歌っているかのような錯覚に陥りました。

前述の通り、花巻、太田村時代の詳細な年譜を作成中で、改めて光太郎の日記や書簡などを読み返している最中ですので、なおさらそう感じたのかも知れません。

終演後は電車で帰りました。その日の内には帰り着きましたが、さすがに疲れました。疲れましたが、有意義な1日でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月19日

昭和20年(1945)の今日、『読売報知新聞』に「罹災の記」、『東京新聞』に「仕事はこれから」の、ともに散文が掲載されました。

どちらも花巻移住の直接の契機となった、同月13日の空襲によるアトリエ焼失に関する内容です。

自己生活の過去にれんれんたるなかれ。むしろ御破算をこそ喜び、未来に耿々たる新生の火を焚き、敵の腰砕け、敵の気力折れ尽きるまで、戦に冷徹して、神明からうけた大和民族の真意義を完たらしめねばならない。私も老骨に鞭うつて大いにやらうと思ふ。(「罹災の記」から)

私は大切な道具箱を助けたので千万力の気がする。(略)此等さへあれば私の過去の彫刻作品など悉く不用である。これから私の本当の彫刻がいくらでも生れる。過去よ去れ、過去よ消えよ。今こそ破算と創建との切換の自然到来。私の仕事はこれからであり日本の美しい美が私を待つて其処にゐる。(「仕事はこれから」より)

潔いというか、その意気やよし、というか、そういう感じもしますが、空元気、空威張りの感も否めません……。