少し前からぽつぽつ書いていましたが、岩手花巻の高村光太郎記念館のリニューアルオープンについてです。

以下、花巻市のサイトから。

高村光太郎記念館のリニューアルオープンについて

改修工事を行っている高村光太郎記念館の開館日程が決まりましたのでお知らせします。
開館に先立ち記念式典を行う予定です。
なお、高村光太郎記念館は、旧花巻歴史民俗資料館を活用して平成25 年5 月15 日から市営の記念館として暫定的にオープンしていたもので、平成26 年度において全面的に改修を行っていたものです。
記念館の展示は、彫刻をメインに映像や音響などを工夫して光太郎の世界に誘導する「展示室1」と、書や詩などを時代背景とともに解説してテーマ別に理解を深める「展示室2」の2つのゾーン構成となっております。
改修にあたっては、顕彰活動を行っている財団法人花巻高村光太郎記念会や地域の皆さんのご意見を聞きながら進めてきており、今回の記念館整備により、以前より多くの来館者においでいただけることを期待しております。

                記

1  開館日時  平成27年4月28日(火)正午から
2  式典概要  開館日の午前中に式典を実施
    市長あいさつ、来賓祝辞、テープカット等  テープカット後に式典参加者に対し展示説明
3  その他 工事に伴いまなび学園で開催中の「高村光太郎展」は4月15日まで会期を延期します。

なお、式典の内容については、詳しく決まり次第ご案内します。
開館を記念して、28日(火)29日(水・昭和の日)は入場無料。
5月15日(金)、高村山荘 詩碑前で開催される「高村祭」は開館を記念した行事として、記念講演や地域の小中学生による朗読や合唱などを行う予定です。

こちらは今月2日の第59回連翹忌にて配布されたチラシです。

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一昨年の5月に仮オープンとなった高村光太郎記念館。その時点では上記画像の展示室1のスペースのみの使用となっていました。

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それがこれまで使用していなかった奥のスペースも使用、約2倍の面積となり、さらに展示内容も一新されます。

手前の展示室1は「彫刻をメインに、映像や朗読で光太郎の世界に誘導する」というコンセプトです。朗読は声優の堀内賢雄さん。先月、東京水道橋のスタジオにての収録に立ち会って参りました。イメージ映像も流れ、ハイテクな展示となるようです。

展示室2は、書、草稿、著書、遺品などのテーマ別展示がメインです。特に書に関しては、充実しています。また、宮澤賢治や石川啄木など、岩手の人々との関わりについての展示も為されます。この部屋の説明パネルの一部を執筆させていただきました。

さらに上記図面で云うと展示室2の右側が副室となっていて、そちらは1年間のスパンで企画展的に展示を入れ替えます。最初の展示のテーマは「光太郎山居七年」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)の、この地での光太郎にスポットを当てます。ただし、副室のオープンは来月となります。


おりしもGW。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月13日

明治45年(1912)の今日、歌人・石川啄木が歿しました。

宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。光太郎より0103歳年少でしたが、明治45年(1912)の今日、数え27歳で歿しました。その短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

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啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がまだ続いていたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。