昨日は、光太郎詩のモデルになった方に、お話を伺うため、東京練馬に行っておりました。

盛岡出身の彫刻家・深沢竜一氏。大正14年生まれのおん年90歳になられます。ご両親はともに画家の深沢省三・紅子夫妻。やはりともに光太郎と深く関わった方々です。

光太郎顕彰のお仲間である女優の渡辺えりさんにご連絡があり、渡辺さんがぜひお話を聴きたいということになって、当方にもお声がけ下さいました。そういうわけで昨日は渡辺えりさんご夫妻、それから渡辺さんの演劇塾の生徒さん10名ほどと、大人数でお邪魔しました。

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手前が深沢氏です。

お伺いした光太郎に関わる氏の体験を、時系列に沿ってご紹介します。

まずは昭和18年(1943)10月、いわゆる学徒出陣が始まりました。氏は当時、東京美術学校彫刻科に在籍されており、同じ彫刻科の先輩3人と、出陣前に駒込林町の光太郎アトリエを訪ねて話を聴こう、ということになったそうです。4人は彫刻家・舟越保武のアトリエに出入りしていた仲間だったとのこと。

そして訪問が実現、光太郎は10月18日に次の詩を書き、同月26日の『毎日新聞』に掲載されました。


   四人の学生007 (2)

けふ訪ねてきたのは四人の学生。
見しらぬ彫刻科の若い生徒。
非常措置の実施によつて学窓から
いち早く入営するといふ美の雛鳥。
彼等はいふ、
「さとりがひらけたやうに
はつきり心がきまりました。」
私はいふ、
「どんなときにも精神の均衡を失はず、007
打てば響いて
当面する二つなき道に身を挺するこそ
美を創る者の本領、
美と義とを心に鍛へる者の姿だ。」
四人の学生のうしろに
いま剣をとつて起つ無数の学徒がゐる。
君、召させたまふ時、
顧みなくて赴くは臣(おみ)の誇りである。
まことに千載にして一遇の世に生き
若き力として名乗り得る者は幸である。
四人の学生は多くを語らないが
眉宇すでに美しい。
「先生もどうかお元気で、」と
この見しらぬ美の雛鳥らは帰つていつた。
学徒出陣は日本深奥の決意を示す。
聖業成りたまふの気
氤氳として天に漲るを覚える。

さらに昭和19年(1944)に刊行された詩集『記録』に収められた際、つぎの前書きが付されました。

昭和十八年十月十八日作。此月一般学生徴兵猶予の停止及び理工科系学生の入営延期、理工科系統学校の整備拡充、法文科系統大学専門学校の統合整理等の「教育に関する戦時非常措置方策」が決定せられ、情報局から発表せられた。此発表は一時全国の学徒に異常な衝撃を与へたが、忽ち青年は一切の宿心を超えて凛然たる決意を示した。

光太郎は、六日後には「全学徒起つ」という詩も作りました。

この後、深沢氏は海軍に配属され、三重、横須賀、旅順と、点々と配属が変わり、終戦時には体当たり自爆兵器「海龍」の基地にいらしたそうですが、幸い、特攻での出撃には至らなかったということです。

終戦後、モンゴルから引き揚げてきたご両親と合流、郷里岩手に帰られ、雫石で開墾、牧畜を始めたそうです。昭和39年(1964)までこちらにお住まいだったとのこと。そして花巻郊外太田村での山小屋生活をしていた光太郎と再会されたのが昭和22年(1947)。その後、10回ほど光太郎の山小屋を訪れ、自作の彫刻などを見せ、教えを請うたそうです。光太郎には彫刻と絵画の違いなどを教え込まれたとのこと。絵画は平面をいかに立体的に見せるかに腐心するもの、彫刻は逆に丸いものを丸く作っては駄目で、実物にある奥行きを押しつぶす必要があるといった話でした。

ご両親は盛岡に開校した岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)の教授となり、たびたび光太郎を招いて講演をしてもらっていました。昭和25年(1950)1月、やはり美術工芸学校に来校した流れで、光太郎を雫石の自宅に招き、もてなしたそうです。光太郎、牛乳をたくさん飲めたのをことのほか喜びました。

此間中は盛岡で随分しやべらされました。その代わり御馳走にもなり、お酒もいただき、西山村の深沢さんの小屋では二日間に好きな牛乳を一升ものみました。
(佐藤隆房宛書簡より)

この辺りの経緯は、『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962)、『啄木 賢治 光太郎 -201人の証言-』(同51年=1976)といった書籍に断片的に掲載されていますが、実際にお話を聴くのとではやはりニュアンスも違います。

その時に光太郎が書いた書が、深沢家に残っています。

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宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節です。画像等を含め、初めて実物を見ました。

賢治といえば、深沢氏、幼い頃に生前の宮澤賢治にもお会いになったそうです。賢治の年譜と照合してみると、どうやら昭和6年(1931)、賢治の歿する2年前です。当時吉祥寺にお住まいだった父君を訪ねてきたそうです。父君は童話雑誌『赤い鳥』に関係されており、さらにお隣には、童話集『注文の多い料理店』の装丁と挿絵を手がけた菊池武雄が住んでいたそうで、その関係だろうとのことでした。

当方、なんだかんだで生前の光太郎を知る方は30名ほど存じていますが、生前の賢治を知る方にお会いしたのは初めてです。

貴重な機会を設けて下さった深沢様、渡辺えりさんには深く感謝申し上げます。

渡辺さん、来週の第59回連翹忌にご参加くださり、深沢様についてのお話をご披露下さるとのことです。


【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月27日

昭和39年(1964)の今日、光太郎の実弟・豊周が、鋳金の分野で重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定されました。