昨日は、千葉県の八千代市、秀明大学飛翔祭「宮沢賢治展 新発見自筆資料と「春と修羅」ブロンズ本」に行って参りました。
 
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稀覯本コレクターでもある同大学学長・川島幸希氏の集めた貴重資料が惜しげもなく並んでいました。また、ありがたいことに写真撮影可でした。
 
大きな教室を3つ使い、第一室には、宮澤賢治関連。今年9月に報じられた盛岡高等農林学校の同級生だった成瀬金太郎に送ったはがきや在学中のスナップ写真、背表紙に詩集と記されたことが不満で、自らブロンズの粉で文字を消したという『春と修羅』、自筆署名入りの『注文の多い料理店』、などなど。
 
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賢治作品の載った書籍、初出雑誌なども。
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左は文圃堂版『宮沢賢治全集』。昭和9年(1934)から翌年にかけての刊行で、全三巻。光太郎も編者に名を連ね、装幀、題字、装画も光太郎が手がけています。
 
その内容見本に書いた光太郎の「宮澤賢治に就いて」の書き出しは以下の通りです。
 
 宮澤賢治の全貌がだんだんはつきり分つて来てみると、日本の文学家の中で、彼ほど独逸語で謂ふ所の「詩人(デヒテル)」といふ風格を多分に持つた者は少いやうに思はれる。往年草野心平君の注意によつて彼の詩集「春と修羅」一巻を読み、その詩魂の厖大で親密で源泉的で、まつたく、わきめもふらぬ一宇宙的存在である事を知つて驚いたのであるが、彼の死後、いろいろの詩稿を目にし、又その日常の行蔵を耳にすると、その詩篇の由来する所が遙かに遠く深い事を痛感する。
(略)
彼こそ、僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない。そして斯かる人種をこそ、われわれは長い間日本から生れる事を望んでゐたのである。
 
 最も早い時期に賢治を世に紹介した文章の一つです。
 
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こちらは草野心平が編集・刊行していた雑誌『銅鑼』(昭和2年=1927)。賢治の「イーハトヴの氷霧」が掲載されています。光太郎の作品も。三者の絆を示す象徴的な一冊ですね。
 
第二室は賢治ゆかりの文学者の著書など。当方としてはこちらの方に興味をそそられていました。
 
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光太郎の『道程』私家版。天・地・前、三方の小口に金押しが施されています。さらに遊び紙がたくさん入っており、そこに上の画像の「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る 光」、「道程 高村光太郎」×2の3箇所の識語署名。桐箱が附いており、箱書きは佐藤春夫だそうです。
 
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たまたまこれを見ている時に、川島学長が会場にいらしていて、ガラスケースから出して下さり、展示で開かれている以外のページも見せて下さいました。
 
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説明される川島氏。青いジャケットの方です。
 
通常の『道程』も並んでいました。ただし、カバー附きです。カバー附きは3~4冊残っているかいないか、というものですし(当方もカバーなしは持っていますが)、しかもそのカバーも非常に状態がよいもので、「現存する中で最も状態のよい一冊」というキャプションも大げさではありません。
 
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その他、光太郎とも関連するもの。
 
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萩原朔太郎『月に吠える』。与謝野晶子宛署名入り。
 
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草野心平『第百階級』。光太郎が序文を書いています。
 
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中原中也『山羊の歌』。光太郎が装幀、題字を手がけました。何冊か並んでいて、三好達治宛署名入りもありました。
 
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午後一時からは、賢治の実弟で、賢治作品の紹介に尽力した清六の令孫・宮澤和樹氏の講演、「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。二百人近く聴衆が集まったのではないでしょうか。
 
 
親族という立場からの賢治ということで、非常に分かりやすく、また、興味深いお話でした。特にありがたかったのは、光太郎についてかなり言及して下さったことです。
 
たしかに賢治作品には他に類例が無く、一種独特の世界を形成していますが、賢治ファンの中には、とにかく賢治一本槍で、その周辺には眼を向けない方が多いように感じます。ところが昨日の和樹氏は、そうした世界を広めるために光太郎が果たした役割は非常にありがたかった的なお話をなさり、こちらとしてもありがいかぎりでした。
 

以前にも書きましたが、逆に光太郎が「雨ニモマケズ」を改変したという、いわれのない都市伝説的な記述(それもエラい宗教学者のセンセイが展開しています。あちこちから「光太郎は無実だ」と批判が出ているのに耳を貸そうとしません。「老害」の典型例ですね(笑))も見かけます。そういうことはありませんので、よろしくお願い申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月10日
 
昭和19年(1944)の今日、小山書店から「天平彫刻」が刊行されました。
 
光太郎を含む16人の共著で、光太郎は「天平彫刻の技法について」を執筆しています。
 
編集に当たった美術史家、奥平英雄の回想『忘れ得ぬ人々』(平成5年=1993、瑠璃書房)によれば、
 
このとき製本所から小山書店に届けられたのはごく一部(部数は不詳)で、大半は十一月二十四日の空襲で製本所に在庫のまま灰燼に帰してしまった。マリアナ基地を飛び立ったB29約七十機が東京を初爆撃、神田錦町、鎌倉町一帯を爆撃した際、製本所も災害を被ったからである。こうして苦心の末出来上
った『天平彫刻』も少数を残したまま烏有に帰したのである。したがって僅かに残った初版本は幻の書ともいうべき稀覯本となった。

とあります。

確かにサイト「日本の古本屋」等で調べても、昭和23年(1948)と同29年(1954)の復刻はヒットしますが、19年の初版は登録されていません。
 
しかし、実際のところ、「幻の書」と呼べるかどうか、と感じています。というのは、当方、三回、この本を手にしたからです。
 
まず、カバーなしの状態で購入しました。その後、カバー附きが売りに出ていたのでそれも購入(左下の画像)。カバーなしは神奈川近代文学館さんに寄贈しました。さらにその後、たまたま訪れた名古屋の古書店でも初版を見かけ、手にとってみました。また、国会図書館さんにも所蔵があるようです。
 
どうにも判断が付きかねるところです。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。
 

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