千葉県は我孫子市にある我孫子市白樺文学館。先週、行って参りました。4年ぶり、4回目ぐらいの訪問でした。
 
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現在、下記の企画展が開催中です。 

柳宗悦展-出会いと絆の地、我孫子-

7月3日(木曜日)から9月28日(日曜日)まで
午前9時30分から午後4時30分 休館日は月曜日。月曜日が祝祭日の場合は開館し、次の平日が休館日。
一般 300円、高校生・大学生 200円
〒270-1153 千葉県我孫子市緑2-11-8
 
 宗教哲学者、思想家、美学者、そして民藝運動の父、柳宗悦。宗悦は、1914(大正)3年9月初旬25歳の時に我孫子へ移住し、1921(大正10)年3月までを過ごしました。我孫子での活動は、宗悦にとってかけがえのないものであったといえます。
 『白樺』同人として西洋美術の積極的な紹介に努め、特にロダンとの交流により手に入れた彫刻は、朝鮮半島で教員をしていた浅川伯教を我孫子に導き、民藝運動の基礎となる朝鮮陶磁器「秋草文面取壺」との出会いをもたらします。
 陶芸家バーナード・リーチとの絆を深め、浜田庄司との出会いもここ我孫子の地でした。そして『白樺』同人である志賀直哉、武者小路実篤を我孫子に導き、生涯にわたる絆をここで結んだといっても過言ではありません。また我孫子の地は、宗悦にとって妻兼子との新婚時代を過ごした地であるとともに、初めて自らの家庭を築いた地、つまり家族の絆を築いた場所です。
  柳宗悦にとって我孫子は「出会い」と「絆」の地であったといえます。
 本企画展では、我孫子来訪100年を記念し、「出会い」と「絆」をコンセプトに、日本民藝館所蔵品を中心に宗悦の我孫子時代の活動を紹介します。
 
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光太郎は『白樺』の準同人のような立ち位置でした。大000正期にロダンを紹介する上で、光太郎と白樺派との接点が大きかったので、白樺派の面々と親しく交わっていました。右はロダンの「鼻のつぶれた男」。今回の企画展でも展示されています。
 
特にバーナード・リーチはロンドンでの光太郎との出会いが大きな機縁となって来日、以後も交流を続けましたし、武者小路実篤などとも晩年までつきあいが続きました。他にも有島兄弟、長与善郎、木下利玄、岸田劉生、そして柳宗悦。今回の展示では、これらの人々の集合写真で、光太郎が写っているものも並んでいました。
 
ただし、白樺派の面々が移り住んだ、この我孫子には光太郎の足跡は残っていないようです。
 
文学館のすぐはす向かいが、志賀直哉の旧宅跡。書斎として使用していた棟のみ残り、市の文化財に指定されています。母屋があった場所には、基礎部分をかたどった敷石が敷き詰められています。
 
 
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また、やはりすぐ近くの手賀沼には、昭和49年(1974)に建立されたリーチの碑も。
 
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リーチの描いた巡礼者の絵と、英文の詩が刻まれています。傍らには解説の碑。
 
我孫子には他にもジャーナリスト・杉村楚人冠記念館、柳の旧宅跡、柳の叔父の嘉納治五郎別荘跡など、文学散歩にはもってこいです。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月12日
 
昭和20年(1945)の今日、親友の作家・水野葉舟にあてて、花巻郊外太田村の山小屋の図面入りの長い手紙を書きました。
 
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現在、「高村山荘」として保存されているものですが、もともと鉱山の飯場小屋だったものを買い取り、村人の協力で解体移築、翌月から7年間、この小屋み住むことになります。
 
上記画像に見える当初の構想では、「月見台」などと洒落たものを作る予定でしたが、これは実現されませんでした。また、「総板敷(彫刻製作のため)」とあります。やはり当初はここで彫刻にいそしむ予定だったのですが、戦争協力に対する深い反省から、彫刻は封印されます。簡単なものは作ったようですが、彫刻らしい彫刻は一点も作りませんでした。
 
その封印を解いたのは、7年後。青森県から委嘱された十和田湖畔の裸婦像、通称乙女の像の制作でした。