現在、茨城県各地において、第38回全国高等学校総合文化祭・「いばらき総文2014」が開催されています。「文化部のインターハイ」とも呼ばれるイベントです。高校生諸君には、甲子園やインターハイなどの運動系だけでなく、文化系の活動でも頑張ってほしいものです。
 
主催は文化庁および公益社団法人全国高等学校文化連盟(高文連)さん。そちらで、全国高等学校総合文化祭以外に行っている活動の中に、「全国高等学校文芸コンクール」があります。今年で29回目だそうですが、その応募要項の中に「高村光太郎」の文字が。
 
第29回全国高等学校文芸コンクール応募要項

1 趣 旨
 全国の高校生から広く文芸作品を募集し、日本語の力と表現の可能性についての関心を喚起することにより、学校における文芸創作活動の振興と向上を図ることを目的とする。
2 応募資格
 高等学校、中等教育学校の後期課程、特別支援学校高等部、高等専門学校(第3学年までに限る)生徒、 並びに専修学校及び各種学校の修業年限が高等学校と一致している生徒。
3 応募部門
 (1) 小説 1人2編以内(400字詰め30枚以内)
 (2) 文芸評論 1人3編以内(400字詰め20枚以内)
    自由課題  作家論、作品論、文芸思潮など。共同研究も可。
    推奨課題 中島敦(小説の分野)、高村光太郎(詩の分野)、
         伊藤左千夫(短歌の分野)、水原秋桜子(俳句の分野)、
         枕草子(古典の分野)、モーム(外国文学の分野)、
         共同研究も可。
 (3) 随筆(エッセイ)1人3編以内(400字詰め10枚以内)
 (4) 詩 1人3編以内
 (5) 短歌 1人3首以上10首以内を併記のこと
 (6) 俳句 1人3句以上10句以内を併記のこと
 (7) 文芸部誌
     1校1点
     平成25年10月1日から平成26年9月18日の間に発行されたもの
     (中高一貫の部誌・同好会発行によるものも可)
 
6 賞
 (1) 全国高等学校文化連盟会長賞 最優秀賞、
     優秀賞、優良賞、入選(文芸部誌部門は奨励賞〉
 (2) 文部科学大臣賞 最優秀賞の中から特に優れている作品3点
    (散文の部、韻文の部、文芸部誌の部に各1点)
 (3) 読売新聞社賞 3点以内
 (4) 一ツ橋文芸教育振興会賞 文芸部誌部門から1点
7 審査結果の発表
 都道府県高等学校(芸術)文化連盟あて通知を以て発表とする。また、上位入賞作品は12月13日刊行予定の「全国高校生文芸集」に掲載発表する。文芸集希望者は返信用の角2封筒に、住所、氏名を書き、300円分の切手を貼って、全国高等学校文化連盟宛に申し込むこと。
8 表彰式
 平成26年12月13日(土) 国立オリンピック記念青少年総合センターにおいて優良賞(文芸部誌部門は奨励賞)以上の表彰式を行う。
 
10 応募締切
 平成26年9月17日(水)(消印有効) 受付は8月20日(水)から開始する。

 
光太郎を推奨してくださって高文連さんには、感謝いたします。現代の高校生が、どのように光太郎詩を読むのか、非常に興味があります。
 
光太郎自身、のちに「変な方角の詩」と書いた、詩人の魂の本質から大きく外れた戦時中の戦争協力詩に、なぜかことさらに注目し、「これこそ大和民族の魂の叫びだ」などと、ヘイトスピーチ的なことを平気で言っている人たちがいます。光太郎に対する冒瀆以外の何ものでもありません。
 
これからの日本を背負う若者たちには、独善的で幼稚なナショナリズムをふりかざすことのないようにと願います。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月30日
 
平成17年(2005)の今日、詩人の黄瀛(こうえい)が歿しました。
 
黄瀛は明治明治39年(1906)、清朝末期の中国重慶で中001国人の父と日本人の母の間に生まれました。幼くして父と死別、その後、母の実家のあった、銚子にほど近い八日市場(現・匝瑳市)に移り、尋常小学校を終えました。しかし日本国籍でなかったため、公立の上級学校には進学できず、東京の正則中学校、さらに中国青島の日本中学校に移ります。そして彼の地で、嶺南大学に留学中の草野心平と知り合い、心平が創刊した雑誌『銅鑼』に参加、さらに日本の詩誌への投稿などを盛んに行うようになりました。
 
大正14年(1925)には再び来日、やはり詩人の中野秀人を通じて光太郎と知り合います。光太郎は黄瀛を気に入り、彫刻のモデルに起用しました。ただし、この彫刻は現存しません。右は、比較的最近見つかった画像です。
 
また、光太郎は、後に昭和9年(1934)に刊行された黄瀛の詩集『瑞枝』の序文を書いたり、さらに、与謝野夫妻も関係していた文化学院に黄瀛が入学する際、保証人になったりしています。
 
遅れて帰国した心平を光太郎に引き合わせたのが黄瀛。さらに宮澤賢治を含めて交流が続きます。黄瀛は昭和4年(1929)、晩年の賢治を花巻に訪ねています。
 
その後、昭和12年(1937)には日中戦争が勃発、黄瀛は帰国します。南京に成立した汪兆銘の中華民国国民政府の宣伝部顧問として中国にいた草野心平と、終戦の年に再会。この時点で黄瀛は国民党の将校として、日本人の接収業務に当たっていました。李香蘭(山口淑子)の帰国も黄瀛の骨折りだったそうです。心平は、光太郎から貰った智恵子の紙絵などを没収されることを懼れ、黄瀛に託しました。
 
昭和24年(1949)に中華人民共和国が成立すると、国民党将校だった黄瀛は投獄され、昭和37年(1962)まで監禁。この際に心平から託されたもろもろのものは行方不明になりました。さらに出獄後すぐ、文化大革命が起こり、再び入獄。解放されたのは実に昭和53年(1978)のことでした。昭和59年(1984)にはほぼ半世紀ぶりに来日、晩年の心平と再会を果たしました。
 
平成12年(2000)には、千葉県銚子に黄瀛の詩碑が建てられ、除幕式に参加。これが最後の来日となりました。
 
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