昨日は都内に出かけて参りました。
 
まずは上野の東京国立博物館さん。連休谷間の平日、しかもそこそこ雨が降っていましたが、多くの人でにぎわっていました。
 
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特別展「キトラ古墳壁画」が目的の方が多かったようで、ご覧の通りの行列。興味はあるのですが、40分待ち、と言われ、そちらはパスし、本来の目的のジャンル別展示だけ観ることにしました。
 
本館1階第18室が「近代の美術」となっており、光太郎のブロンズ彫刻「老人の首」(大正14年=1925)、光雲の木彫で重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)が展示されています。
 
00418室の入り口近くに「老人の首」がありました。同じ型から作ったものは、昨年、千葉市美術館他で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも並んでいたのですが、こちらの方が古い鋳造のようです。
 
キャプションには「江渡幹子氏寄贈」とあり、光太郎と交友のあった青森県五戸出身の思想家・江渡狄嶺(えとてきれい)の縁者かな、と思いました。狄嶺の妻がミキという名です。当時、女性は戸籍上の名に「子」がついていないことが多く、一種の敬称として互いに「子」をつけて呼び合ったり、自分でも「子」をつけて名乗ったりすることが一般的でした。また、やはり戸籍上の名に漢字が使われていなくても、自分で漢字をあてることもよく行われていました。智恵子も与謝野晶子も、それから現在NHKの朝ドラ「花子とアン」で扱われている村岡花子もそうです。「花子とアン」にはそういうエピソードもありました。

追記 やはり寄贈者は江渡の妻・ミキでした。

 
光太郎の回想に依れば、モデルは駒込林町のアトリエに造花を売りに来る老人。昔、旗本だったそうで、江戸時代の面影を残すその顔に惹かれてモデルとして雇ったそうです。
 
ただ、光太郎の縁者によると、光雲の異母兄・中島巳之助に甚だよく似ている、という証言もあります。
 
そして18室の終わり近くに「老猿」。
 
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圧倒的な存在感です。「高さ90センチ」というデータは頭に入っているのですが、どうみてもそれ以上の大きさに見えます。
 
こちらはあまり目にする機会が多くなかったので(平成14年=2002の茨城県近代美術館「高村光雲とその時代」展、同19年=2007の東京国立近代美術館「日本近代の彫刻」展に続き、3回目です)、興味深く観ました。
 
やはり彫刻は3次元の作品なので、観る角度によって見え方が違いますし、写真等ではわからない細部もよく観られました。
 
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「老人の首」「老猿」の展示は5月25日(日) まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
その後、上野を後に、一路日本橋へ。三井記念美術館さんでの「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」を観て参りました。そちらのレポートはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月1日

明治26年(1893)の今日、シカゴ万国博覧会が開幕しました。
 
はるばる海を渡って「老猿」が展示されました。アメリカの人々は、その技術の巧みさに驚いたといいます。
 
そうした彫刻としての凄さとは別の面でも話題になりました。この「老猿」は、そもそも老いたニホンザルが猛禽と格闘した後、飛び去って行く猛禽を見上げている構図だそうです。左手には逃げた猛禽の羽根を握りしめています。
 
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これが物議をかもしました。シカゴ万博日本パビリオンのすぐ前、一説によると「老猿」の視線の先にはロシアのパビリオンがありました。そのロシアの国章が鷲。
 
当時の日本は東アジアの覇権を巡ってロシアや清とにらみ合いを続けている時期でした。教科書にも載っているビゴーの風刺画が有名ですね。
 
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翌年には日清戦争、さらにその翌年、講和のための下関条約に対しては、ロシアが中心になっていわゆる「三国干渉」を仕掛けてきます。そこで、「老猿」が握りしめている猛禽の羽根はロシアを象徴し、日本のロシアに対する威嚇だ、ととらえられたのです。
 
しかし、光雲はそうした外交や政治には疎かったといいます。どうもこの説は牽強付会に過ぎるように感じます。