一昨日、信州安曇野碌山美術館さんで開催された第104回碌山忌に行って参りましたが、その前に立ち寄った所があります。
 
同じ安曇野市にある臼井吉見文学館さん。
 
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臼井吉見は編集者、作家。やはり安曇野の生まれです。
 
昭和15年(1940)、同郷の古田晁らと筑摩書房を設立、同21年(1946)、雑誌『展望』を創刊、編集長に就きます。
 
『展望』には、発刊の年に詩「雪白く積めり」が掲載された他、翌昭和22年(1947)には20篇からなる連作詩「暗愚小伝」が載るなど、光太郎作品がたびたび掲載されました。
 
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「暗愚小伝」は、ある意味、光太郎のターニングポイントになった作品群です。戦時中、国策協力の詩を乱発していた光太郎が、敗戦後、自分の詩が多くの前途有望な若者を死地に追いやった反省から、「自己流謫」……自分で自分を流刑に処するという境地に至って書かれました。20篇の連作詩で、幼少期からその当時に至る自己の精神史を語っています。
 
「暗愚小伝」の載った号に記された「編輯後記」で、臼井はこう書いています。
 
 つづいて二回の戦火に遭ひ、遠く岩手の山奥にみづからの手でしつらへた住ひに孤坐する高村光太郎氏が、想を構へること二年間、稿成つて珠玉二十篇を寄せられたことは感謝にたへない。歌ふところは孤独な老詩人の生涯の精神史であり、題して暗愚小伝といふ。電燈のつかない山小屋の榾火のあかりで鏤骨の推敲を重ねられた夜々をおもひ感慨なきを得ない。この詩人の数多い詩業のなかで本篇の占める特異な位置と意味については贅言するに及ぶまい。
 
掲載誌の編輯後記ということもあり、ここでは褒めています。しかし、これは言わば「建前」。昭和48年(1973)に有精堂から刊行された「日本文学研究資料叢書 高村光太郎・宮沢賢治」所収の「高村光太郎論」では、「本音」が出ています。
 
詩稿を手にして、ぼくはいたく失望したことをいまでも覚えている。これをかきあげないかぎり、一行も他の文章はかけないとまで言われ、骨にきざむ思いで苦心されたものであっただけに、いたましい思いなしには読み通せないものであった。そこには詩のリズムは消え失せて、説明ふうの言葉だけが並んでいたといっても過言ではなかった。
 
編集者というもの、なかなか一筋縄で000はいかないものです。
 
さらに臼井は、昭和39年(1964)から、実に10年かけて長編大河小説『安曇野』全五巻を書きました。新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、木下尚江、荻原守衛、井口喜源治ら、安曇野に生きる人々の群像が描かれています。
 
第二部では守衛との絡みで光太郎も登場します。
 
さて、安曇野市臼井吉見文学館さん。
 
その『安曇野』の原稿をはじめ、臼井の遺品や著書、蔵書、揮毫、書簡などが展示されています。平日ということもあり、他に入場者もなく、学芸員の方が細かく説明して下さいました。ありがたいかぎりでした。
 
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光太郎の原稿や、臼井宛の書簡の類はないかと期待していたのですが、そういうものはないとのこと。その点は少し残念でした。
 
安曇野方面には、他にも光太郎とゆかりのあった人物に関わる文学館、美術館のたぐいがたくさんあります。これからも、毎年、碌山忌にはお邪魔すると思いますので、そうした施設を毎年少しずつ制覇していきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月24日

平成9年(1997)の今日、NHK総合テレビで放映された「夢用絵の具」で、智恵子が扱われました。
 
サブタイトルは「ふたつの緑 高村智恵子」。003
 
この番組は毎回一つの「色」を軸に、その色と関わりの深い一人の人物をからめて描くというコンセプトの45分番組でした。平成8年(1996)の11月に単発で、その後、同9年の4月から翌年3月まで1年間、毎週木曜日の夜に放映されました。
 
MCは堺正章さん、大島さと子さん、テーマソングは辛島みどりさん。智恵子の回のゲストは浅野ゆう子さんでした。
 
「日本初の印象派宣言」とも言われる光太郎の評論、「緑色の太陽」に触発され、画家への道を目指す智恵子。しかし太平洋画会では、師・中村不折に人体を描くのに緑の多用は避けるべき、とたしなめられます。
 
絵画制作に絶望後、心を病んだ智恵子が作り始めた紙絵。そこにも鮮やかな緑が……。
 
平成10年(1998)には、好評だった回の内容をまとめた『夢用絵の具 心を染めた色の物語』(中村結美/夢用絵の具プロジェクト著、駿台曜曜社)が刊行されました。