一昨日になりますが、千葉県東端の銚子に行って参りました。といって、生活圏なので、時々行くのですが……。昨日のブログにもちらっと書いたとおり、当方、合唱をやっており、その関係です。
 
目的地は市内中心部、新生町にある公正市民館というところ。公民館的な施設です。銚子を代表する企業・ヤマサ醤油の10代目濱口儀兵衛が大正末に建て、戦後になってから市に寄贈されました。大正末の建築ということで、レトロな感じがたまりませんね。
 

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道路を挟んで目の前がヤマサ醤油の本社工場、そしてその東隣に、かつては国鉄貨物線の駅がありました。現在は「中央みどり公園」となっています。
 
こちらには、光太郎と縁の深い詩人・黄瀛(こうえい)の詩碑があります。
 
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黄瀛は明治明治39年(1906)、清朝末期の中国重慶で中国人の父と日本人の母の間に生まれました。幼くして父と死別、その後、母の実家のあった、銚子にほど近い八日市場(現・匝瑳市)に移り、尋常小学校を終えました。しかし日本国籍でなかったため、公立の上級学校には進学できず、東京の正則中学校、さらに中国青島の日本中学校に移ります。そして彼の地で、嶺南大学に留学中の草野心平と知り合い、心平が創刊した雑誌『銅鑼』に参加、さらに日本の詩誌への投稿などを盛んに行うようになりました。
 
大正14年(1925)には再び来日、やはり詩人の中野秀人を通じて光太郎と知り合います。光太郎は黄瀛を気に入り、彫刻のモデルに起用しました。右の画像です。ただし、この彫刻は現存しません。また、後に昭和9年(1934)に刊行された黄瀛の詩集『瑞枝』の序文を書いてやったりしています。さらに、与謝野夫妻も関係していた文化学院に黄瀛が入学する際、光太郎が保証人になっています。
 
遅れて帰国した心平を光太郎に引き合わせたのが黄瀛。さらに宮澤賢治を含めて交流が続きます。黄瀛は昭和4年(1929)、晩年の賢治を花巻に訪ねています。
 
その後、昭和12年(1937)には日中戦争が勃発、黄瀛は帰国します。南京に成立した汪兆銘の中華民国国民政府の宣伝部顧問として中国にいた草野心平と、終戦の年に再会。この時点で黄瀛は国民党の将校として、日本人の接収業務に当たっていました。李香蘭(山口淑子)の帰国も黄瀛の骨折りだったそうです。心平は、光太郎から貰った智恵子の紙絵などを没収されることを懼れ、黄瀛に託しました。
 
その後、昭和24年(1949)に中華人民共和国が成立すると、国民党将校だった黄瀛は投獄され、昭和37年(1962)まで監禁。この際に心平から託されたもろもろのものは行方不明になりました。さらに出獄後すぐ、文化大革命が起こり、再び入獄。解放されたのは実に昭和53年(1978)のことでした。昭和59年(1984)にはほぼ半世紀ぶりに来日、晩年の心平と再会を果たしました。
 
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銚子に詩碑が建てられたのは平成12年(2000)。碑文は「銚子ニテ」という詩の一節です。
 
  風ノ大キナウナリト
  利根川ノ川波
  潮クサイ君ト僕ノ目
  前ニ荒涼タル
  阪東太郎横タハル
       黄瀛
 
昭和4年(1929)の作で、銚子在住だった詩人の関谷祐規を訪ねて銚子を訪れた際に書かれた詩だそうです。
 
「阪東太郎」は正しくは「板東太郎」で、利根川の別名です。
 
下記は詩碑建立の際の新聞記事。
 
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記事にもあるとおり、除幕式の際には黄瀛本人がまた来日しました。
 
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ぜひお会いしたかったのですが、都合がつかず、果たせませんでした。残念です。
 
この後、平成17年(2005)に、中国重慶で白血病のため死去。享年98歳の大往生でした。
 
銚子には、大正元年(1912)に光太郎智恵子が逗留し、愛を確かめた宿「暁鶏館」(現・ぎょうけい館)もあり、黄瀛以外にも光太郎と縁の深い文人が訪れたり、出身だったりということもあります。また、折を見てそのあたりをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月25日
 
昭和30年(1955)の今日、岩波書店から岩波文庫の一冊として『高村光太郎詩集』が刊行されました。
 
光太郎自らが校訂した最後の選詩集です。編集は美術史家の奥平英雄でした。

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