昨日は3.11。東日本大震災からまる3年が経ちました。
 
少し前から、各地で行われたイベントや、その報道などで光太郎智恵子に関わるものがあります。
 
当方は、銀座永井画廊さんで開催中の「高村智恵子紙絵展」に行って参りました。
 
永井画廊さんでは2012年以後、毎年3月に「被災地への祈りのメッセージ展」を開催していて、その一環です。更に昨日は関連行事として、光太郎の弟で鋳金の人間国宝・高村豊周の孫・朋美女史と、高村光太郎研究会員で、かつて群馬県立土屋文明記念文学館の学芸員だった佐藤浩美さんによるトークショーが行われました。

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トークショーの後、午後2時46分には、参会者による黙祷が捧げられました。
 
さて、一昨日のものですが、各地の地方紙の報道をご紹介します。 

東北と岐阜つながれ 岐阜市でイベント、黙とうも

 2014年03月10日 岐阜新聞
 東日本大震災をきっかけに、人とのつながり、支え合いを大切にしようと企画されたイベント「みんな友達!tunagari fes.2014」が9日、岐阜市金町の金公園で開かれ、大勢の人たちが触れ合いを楽しんだ。
 実行委員会(はやしちさこ代表)が開催し、5回目。手作りのお菓子や手芸品などの約120ブースが並び、家族連れらが出店者との会話を楽しみながら買い求めた。
 ステージイベントもあり、8グループが出演。関市のユニット「梅弦」は、震災で津波に流された松で作ったギターの演奏に合わせ、詩集「智恵子抄」を朗読した。
 地震発生時刻の2時46分には、来場者が黙とうをささげた。
 
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もう故郷に戻らない 「なみえ焼そば」店主決意

2014年3月10日 東京新聞
 東京電力福島第一原発事故のため全町避難を強いられている福島県浪江町。ご当地グルメ「なみえ焼そば」が全国的に脚光を浴びる中、町を離れて同県二本松市で営業を再開した「杉乃家」店主、芹川輝男さん(64)は、もう浪江町には戻らないと心に決めた。震災から三年。古里に帰らない選択をする被災者が、増えている。 (谷悠己)
 うどんのような極太麺にたっぷりのもやし、豚バラが中華鍋で「ジュジュッ」と音を立て、甘口の濃厚ソースと絡み合う。
 「浪江の人は年取ってても結構、大盛りを注文するんだ」。鍋を自在に操る芹川さんが話す。浪江町の仮役場がある二本松市は二千五百人の町民が暮らし、店は社交場となっている。
 芹川さんは原発事故後、家族で福島県内の避難所などを転々。釣り仲間だった二本松市の男性が空き店舗を探し、震災の四カ月後に店を再開できた。なみえ焼そばを作る店は町内に約二十店舗あったが、再開したのは杉乃家のみだ。
 以前の店では、東電社員や原発作業員も多かった。「町はずいぶん東電の世話になっていた。事故の賠償はしっかりしてほしいが、東電だけ責める気には今もなれない」。むしろ事故直後、関東の市民が「福島から電気が送られていたと初めて知った」と話していたことが悲しかった。
 浪江町の自宅兼店舗には盆や正月に一時帰宅する。室内のネズミが芹川さんと目線を合わせた後、一斉に姿を消す。部屋中が荒らされ、臭いがひどい。「あれを見たら、もう帰る気なくなるよ。悔しいけど、諦めがついた」。ずっと「浪江に帰りたい」と言っていた義父も二〇一二年六月に肺炎で亡くなった。
 昨年末に愛知県豊川市で開かれたB級グルメの祭典「B-1グランプリ」で、浪江の町おこし団体が作った焼きそばが優勝。それ以降、市外からも大勢の客が訪れる。「全てを失った後の再出発だから、今の方が楽しいかも。まだ仕事が見つからない避難者の人には言いづらいんだけど」
 店内には「がんばろう!浪江 ありがとう二本松」と書いた青地の横断幕を掲げる。青色は、美しかった浪江の海の色。そして、詩人・高村光太郎の妻智恵子が、二本松の生家から眺めて愛した安達太良(あだたら)山の空の色を重ね合わせた「故郷を離れた俺にとって、この街で長く店を続けることが生きる希望だからね」
 
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ちなみにこの店は、大山忠作美術館さんが入っている二本松駅前の市民交流センター1階にあり、当方もよく行く店です。
 
避難生活を続けられている方々はまだ26万人。事故を起こした福島第1原発はとても「コントロールされている」状態ではありません。大震災の記憶、まだまだ風化させるわけにはいきません。「被災」はいまだに続いています。
 
明日からまた東北レポートに戻ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月12日

文久3年(1863)の今日(旧暦ですが)、光太郎の曾祖父・中島富五郎が歿しました。
 
富五郎の父、長兵衛までは鳥取藩士だったとされています。富五郎の代から町人となり、浅草で魚屋などをやっており、富本節の素人名人だったとのこと。ところがその技倆を妬まれ、毒を盛られて半身不随に。それからは子供向けの玩具などを木工で作って生活していたそうです。光雲や光太郎に伝わる手先の器用さがここに見て取れます。