十和田レポートの3回目です。
 
一夜明けて2/9(日)朝、前日も御案内くださった十和田・奥入瀬渓流認定ガイドの山一清一さんが、やはり観光ボランティアの木村さんとともに、車で迎えに来てくださいました。
 
この日の目的地は2箇所。まずは蔦温泉さんに向かいました。
 
「十和田湖畔の裸婦像」(通称「乙女の像」)は、十和田湖周辺が国立公園に指定されてから15周年の記念に、当地の景勝を紀行文で広く世に紹介した作家の大町桂月、道路整備等に腐心した元県知事の武田千代三郎、同じく元法奥沢村村長・小笠原耕一の、いわゆる「十和田の三恩人」顕彰のために作られたものです。
 
蔦温泉さんはその「三恩人」と縁が深く、特に大町桂月は蔦温泉さんに長く逗留、その最期も蔦温泉で迎えました。そのため桂月の墓がここ、蔦温泉にあります。また、昭和27年(1952)6月、裸婦像制作のための下見に訪れた光太郎も、蔦温泉さんに宿泊し、桂月の墓に詣でたりしています。
 
この日は前日、東京に45年ぶりの大雪をもたらした低気圧が北上、当地が大雪に見舞われました。たどり着いた蔦温泉さんもすっぽり雪に覆われていました。
 
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旅館は臨時休業中、桂月の墓も豪雪のため行くことができませんでした。
 
旅館に隣接する蔦温泉売店さんは開いていました。後で思えば、もしかすると当方一行のため開けてくださっていたのかもしれません。予定の中に、こちらのご主人・小笠原哲男氏にお話を伺う時間が設けてありましたので。
 
小笠原氏は十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の会長さんで、青森在住の彫刻家・田村進氏のお兄様にあたられます。田村氏は光太郎忌日の連翹忌の集いにもご参加いただいたことがあり、昨年の連翹忌では、氏の近作・光太郎肖像レリーフの巨大画像を会場内に展示させていただきました。
 
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さらに最近は光太郎胸像の制作にもかかられているとのこと。また、氏は北津軽郡小泊村の「小説「津軽」の像記念館」さんにある太宰治と子守のタケの銅像を作られた方です。
 
小笠原氏には往時の蔦温泉さんや、裸婦像建立に関する貴重なお話を伺うことができ、ありがたいかぎりでした。旅館の内部や桂月の墓を見られなかったのが残念でしたが、また陽気のいい時に訪れようと思っています。
 
蔦温泉さんを後に、次なる目的地、奥入瀬渓流館さんへと向かいました。そちらについてはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月12日

昭和24年(1949)の今日、岩手県笹間村の高橋澄子からの手紙を受けとりました。
 
笹間村は花巻市に編入され、「中笹間」「北笹間」といった地区名にその名残をとどめています。光太郎が暮らしていた旧太田村山口ともそう遠くない場所です。
 
昭和24年(1949)の光太郎の日記は、その存在が類推されながら、失われています。ただ、日記とは別に「通信事項」というノートが残されており、『高村光太郎全集』第13巻に収められています。それによると昭和24年2月12日に「高橋澄子といふ人よりテカミ(笹間村)」という記述があります。さらに2月14日には「高橋澄子さんへ返ハカキ(笹間村)」とも。
 
この返信の方が、一昨年でしたか、高橋澄子のご遺族から花巻の財団法人高村記念会に寄贈され、昨年、当方編集の「光太郎遺珠⑧」に掲載させていただきました。
 
おてがみ拝見いたしましたが、どういふわけか大変遅れてつきまして 小生入手は十二日でありましたので、十三日といふお話の日までに御返事出来ず、失礼いたしました。
いつに限らずおいで下されば小生在宅の時にはどなたにでもお目にかかります。
 右おくればせながら御返事まで
            二月十四日
                        高村光太郎
 笹間村
  高橋澄子様
 
「通信事項」には「ハカキ」とありましたが、封書でした。現在、花巻の高村光太郎記念館に展示されています。
 
ただ、光太郎が受けとった方の書簡を見ていないので、どういった事情なのかがわかりません。ご遺族の方もわからないとのこと。
 
情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。