一昨日、昨日と、1泊2日で青森は十和田方面に行って参りました。今日からそのレポートを致します。
 
東京駅午前11:00発の東北新幹線はやぶさに乗り込み、七戸十和田駅に着いたのは午後14:12。新幹線が新青森まで延伸され、青森もぐっと近くなりました。
 
七戸十和田駅には、十和田・奥入瀬渓流認定ガイドの山一清一さんが待っていて下さいました。昨秋、青森テレビの皆さんと一緒に、千駄木の高村家、北川太一先生邸に御案内した際のメンバーのお一人です。
 
事前に、同じく千駄木に同行された十和田市役所民生部まちづくり支援課の山本課長補佐に、十和田に行く旨をお伝えしましたところ、詳細な行動計画を作って下さり、しかも現地での移動は山本氏の四駆のワゴン車、運転は山一さんというVIP待遇でした。当初予定では山本氏の運転で御案内下さるはずでしたが、氏がインフルエンザでダウン、変わって山一氏が案内役を買って出て下さいました。
 
まずは奥州街道沿いに十和田市街へ。
 
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当然と言えば当然なのですが、奥州街道は国道4号線です。国道4号といえば、都内では日光街道。当方の出身大学そばを走っているので、学生時代は車やバイクでうろついていましたし、最近も福島二本松でよく走る道でして、青森の方には怒られそうですが、「こんなところまで4号線がのびているのか」と、変な感動をしてしまいました。
 
さて、最初に寄ったのは、十和田市現代美術館さん。最近、十和田市は、この館を中心に現代アートの街としても徐々に有名になってきました。

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当方、美術館に行くことは多いのですが、やはり光太郎がらみで近代の作品に接することが多く、現代アートは不案内です。そういう意味では現代の作品の数々は新鮮でした。
 
その後、国道102号で奥入瀬方面へ。宿は焼山という地区にある十和田湖温泉郷内で、一旦チェックインし、荷物を置くために立ち寄りました。行くまで気がつかなかったのですが、すぐ近くに十和田湖温泉スキー場というのがありました。それだけに雪はやはり深く、山一さんがスキー場で借りて下さった長靴が役に立ちました。
 
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車は奥入瀬渓流沿いに十和田湖方面へ。途中、銚子大滝に寄っていただきました。ここには、昭和28年(1953)10月21日、光太郎の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)と同じ日に除幕された佐藤春夫の詩碑があります。
 
こちらの除幕式が午前中、午後が乙女の像の除幕式で、光太郎は両方に参加しました。昨秋、その時の映像をお送りいただき、非常に驚いたものです。
 
春夫の詩碑はすっかり雪に埋もれており、そうと教えていただかなければ、どこにあるのかも解らない状況でした。 

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ただ、たとえ雪に埋まっていなくても、現在では碑面がすっかり苔むしていて、ほとんど読めないとのこと。その苔も国立公園内の風物の保護を目的とした自然公園法の規定により、勝手にはがせないそうです。
 
そして車はいよいよ十和田湖畔に。子の口、宇樽部を過ぎ、休屋地区へと向かいます。こちらで先週金曜日から行われている「十和田湖冬物語2014」というイベントが、今回の十和田行きの大きな目的の一つでした。
 
そちらについては、また明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月10日

明治45年(1912)の今日、日本橋大伝馬町の三州屋で開かれた「パンの会」に参加しました。
 
明治42年(1909)に3年余の欧米留学から帰朝した光太郎は、『スバル』執筆者の面々を中心に巻き起こっていた「パンの会」の喧噪に巻き込まれました。
 
「パンの会」とは、フランスのカフェ・ゲルボア(サロンからしめ出されたマネを中心に集まった、若い文学者と美術家達のカフェ文芸運動)を模して始められたもので、東京をパリに、隅田川をセーヌ川に見立て、エキゾチシズムを求めた耽美主義的芸術運動です。その名称はドイツの総合雑誌『パン』を中心にして起こった芸術運動「パンの会」に由来します。「パン」とはギリシャ神話の牧羊神の名ですが、大逆事件で過敏になっていた日本の当局は「麺麭(パン)」を要求する社会主義者の集まりかと警戒したという逸話があるそうです。
 
その狂瀾も長くは続かず、徐々に退屈なものとなって「パンの会」は終焉します。