年2回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その41集を脱稿しました。
以前にも解説しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて5冊目の刊行ということになります。
昨秋、第40集を刊行した際には、『岩手日日』さんでご紹介いただきました。
毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。
「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている別誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。
今回は「造形作家として(三) 昭和・戦時」と題し、光太郎の彫刻や絵画の造形作家としての側面を表すもののうち、太平洋戦争前夜の昭和16年(1941)から、戦時中のものを紹介しました。
「文部省へ 美の問題の統一」 (遺珠⑦所収) 昭和16年(1941)
「書簡三二一八 平櫛田中宛」 (遺珠②所収) 同
「菊池寛・尾崎士郎・高村光太郎文化鼎談」 (遺珠⑤所収) 同
「飛行機の美」 (遺珠⑤所収) 昭和18年(1943)
「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひされ」 (遺珠⑦所収) 同
「火を噴く“神州の怒り” 征け・不退転の道 逞しき素朴美で敵撃滅」 (遺珠⑦所収) 昭和19年(1944)
「書簡三二五二 内山義郎宛」 (遺珠④所収) 同
「書簡三一五四 清水房之丞宛」 (遺珠①所収)昭和20年(1945)
「彫刻について」(遺珠⑨掲載予定) 昭和15年(1940)前号補遺
光太郎回想・訪問記 上田静栄歌文集『こころの押花』より
あまり多くない、大正初期の光太郎・智恵子回想です。
光雲談話筆記集成 浅草の話(上) 『漫談 江戸は過ぎる』より
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第五回 福島高等女学校(福島)
先般、福島に調査に行つた際の成果も記しました。
音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(一)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。
高村光太郎初出索引(五) た行(二)


このあと、地元の印刷屋さんで印刷をしていただき、綴じ込みは自分で行います。上記はワープロソフトの画面をプリントスクリーン機能で取り込みましたので、カラーですが、印刷はモノクロです。
4/2の連翹忌にご参加いただける方には当日、会場でお渡しします。当会名簿に載っている方で、連翹忌にご欠席の場合はのちほど郵送します。
ご希望の方には送料のみ(80円)でお分けしています。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも僅かながら残っています。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月4日
昭和2年(1927)の今日、書肆アルスの松本弘二に葉書を書きました。
この年4月にアルスから刊行された評伝『ロダン』に関わります。
お葉書及ゲラ刷落手、
今度は絶体絶命の気でやつてゐますが、まだ 三四十枚のこつてゐます、
今夜中にあぶない懸念が あります、
少し頭の運転が悪くなりました、毎日殆と徹夜です。
ゲラの校正に悪戦苦闘しているという内容ですが、この気持ち、よくわかります。上記の『光太郎資料』、プリントアウトしたものを校正したところ、7割方のページで訂正がありました。
「大政翼賛か異」→「大政翼賛会」、「日本画経済的にも……」→「日本が経済的にも……」、「航空機による最初の飛行を実施した期待の一つが……」→「航空機による最初の飛行を実施した機体の一つが……」、「一行秋の部分」→「一行空きの部分」……。
まったく「少し頭の運転が悪くなりました」です。