一昨日、本郷で開かれた北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。そちらが午後1時からだったので、午前中は会場にほど近い谷根千地区を歩きました。東京の中でも当方の大好きなエリアです。ただ、正確に言うと千駄木には足を踏み入れませんでした。
 
スタートは鶯谷の台東区立書道博物館さん
 
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昭和11年(1936)の開館という老舗博物館で、元々は洋画家の中村不折が旧宅跡地に建てたものを、後に台東区が寄贈を受けて運営しています。
 
中村は慶応2年(1866)、江戸の生まれ。幼少期に維新の混乱を避けるため信州に移住、明治21年(1888)、23歳で再上京、小山正太郎の不同舎に入門します。後輩には荻原守衛がいました。その後、正岡子規と出会い、子規の紹介で新聞の挿絵を描いたり、子規と共に日清戦争に従軍し、森鷗外と知遇を得たりしています。
 
ちなみに書道博物館の向かいは、子規の旧宅・子規庵です。
 
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中村はその後、島崎藤村『若菜集』『一葉舟』、夏目漱石『吾輩は猫である』、伊藤左千夫『野菊の墓』などの装幀、挿画に腕を揮います。
 
前後してフランスに留学(明治34年=1901)、光太郎も学んだアカデミー・ジュリアンに通ったり、ロダンを訪問し署名入りのデッサンをもらったり、荻原守衛と行き来したりしています。帰国は同38年(1905)で、翌年から欧米留学に出る光太郎とはすれ違いでした。
 
帰国した年から太平洋画会会員、講師格となり、日本女子大学校を卒業して同40年(1907)に同会に通い始めた智恵子の指導にも当たりました。
 
その際、比較的有名なエピソードがあります。人体を描くのにエメラルドグリーンの絵の具を多用していた智恵子に、中村が「不健康色は慎むように」と言ったというのです。しかし智恵子は中村に反発するように、さらにエメラルドグリーンの量を増していったとのこと。
 
中村は中国滞在を通して書にも強い関心を抱き、彼の地の書をたくさん集めた他、自身でも書に取り組みました。書道博物館はそうした中村のコレクション、中村自身の作品などを主な収蔵品としています。
 
現在、企画展「没後70年 中村不折のすべて―書道博物館収蔵品のなかから―」が開催中です(3/23まで)。
 
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中村の書画、装幀や挿画を手がけた書籍、子規や漱石、鷗外、伊藤左千夫らからの書簡や揮毫、ロダンのデッサン、不折が手がけた鷗外や守衛の墓標や新宿中村屋のロゴ(守衛の関係でしょう)の写真などが並んでいました。光太郎智恵子関連もあればいいな、と思っていましたがそちらはありませんでした。
 
面白いな、と思ったのは中庭にある小さな蔵。つい一昨年、道路拡張工事のおりに近くで偶然発見され、明治の写真から不折が建てさせたものと判明し、修復して移設されたそうです。
 
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こういうこともあるのですね。
 
その後、書道博物館を後にし、言問通り沿いに谷中、根津を歩きました。
 
途中に台東区立下町風俗資料館付設展示場「旧吉田屋酒店」がありました。
 
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明治43年(1910)に建てられた005商家建築で、入場無料です。
 
外国の方を含め(写真を撮ってあげました)、けっこう観覧者がいらっしゃいました。
 
店内には当時のものと思われるレトロな看板やポスターも。着流しにハンチングを被った光太郎が貧乏徳利を提げて今にも出てきそうです。
 
ただ、当方の住む千葉県香取市佐原地区にはこの手の古い商家建築が多く、しかも現役で営業しています。何軒か有る酒屋さんもまさに似たような感じで、店内にはこうした看板やポスターが無造作に貼られています。
 
それで思い至ったのですが、自分の住む街と似ているのでこのエリアに親近感を抱くのだと思います。
 
今週また、上野の東京国立博物館で始まる「日本美術の祭典 人間国宝展―生み出されされた美、伝えゆくわざ―」を観に行きますので、近くを歩いてみようと思っています。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月13日

大正7年(1918)の今日、『読売新聞』に雑纂「白樺美術館について」が掲載されました。
 
この当時、「白樺美術展」を開催していた同派は美術館の建設を構想しており、光太郎も賛同していました。しかし諸般の事情で実現には至りませんでした。