当方、あちこち出かけておりますが、基本的にいつも一人です。
 
すると妻が「日帰りでいいから、たまにはどこかちゃんとした温泉に連れて行け」と言い出しました。
 
そこで、一昨年、全線開通した北関東自動車道を使えば、栃木までは比較的楽に行けるので、塩原温泉に行って参りました。
 
二人とも塩原には行ったことがありませんでしたし、訪れてみたい場所があったからです。
 
こんな写真があります。
 
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昭和8年(1933)9月、光太郎智恵子、塩原で撮影された一葉です。
 
光太郎智恵子が一緒に写っている写真で、現在でも普通に見られるものは6葉しかありません。
 
大正15年(1926)に、駒込林町のアトリエで撮られた3葉、その翌年に箱根大湧谷で撮られた2葉、そしてこれです。つまり、光太郎智恵子がそろって写っている最後のものです。
 
昭和8年というと、智恵子の統合失調症がかなり進んでいた時期です。光太郎は智恵子の故郷近辺の温泉巡りでもすれば少しは病状が好転するかと考え、智恵子を連れて旅に出ました。8月24日のことです。
 
ちなみにその前日には、本郷区役所に婚姻届を提出しています。永らく事実婚だったのを、光太郎は自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障のため、そうしたのです。
 
巡った温泉は福島の川上、青根、土湯など。今年8月末に全焼してしまった不動湯を訪れたのもこの旅の途次でした。
 
そして塩原。おそらくここが最後に寄った温泉だろうと推定されています。
 
しかし、9月中旬に東京に帰ってみると、智恵子の病状は出発前より悪化していたと言われています。
 
さて、上記の写真。二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたとのこと。そこでこの場所に行ってみたいと思い立ったわけです。
 
こんな時にも光太郎がらみか、と突っ込まれそうですが、妻も当方の仕事には理解を示してくれているので甘えました。
 
さて、柏屋旅館さんは今も健在。
 
 
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調べてみると、本館は昭和10年(1935)の竣工。惜しいところで光太郎智恵子が訪れた時期に重なっていません。ただ、看板はもっと古いもののような気がしました。
 
さて、問題の写真が撮られた場所、柏屋さんのサイトの記述をたよりに探してみました。
 
初めは林道から渓谷へ下りる道の入り口が分からず、一度通り過ぎてしまいましたが、何とかたどり着けました。
 
010
 
この鹿股川、大雨で氾濫することも多いようで、さらにちょうど80年経っているので、多少は地形も変わっているかと思いますが、まずここで間違いないと思います。感慨深いものがありました。
 
ちなみに光太郎智恵子が柏屋さんから智恵子の母・センに送った葉書が残っています。
 
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帰りがけに塩原によりました 智恵
此間福島のそばやで二本松の久保さんに偶然あひました 光太郎
 
光太郎との連名ですが、これが確認されている智恵子最後の直筆書簡です。
 
また、旅から帰って、光太郎はやはりセンに、上記の二人の写真を絵葉書にして送っています。
 
しばらく方々を歩いてゐましたが、先日帰宅しました、
秋になりましたがお変りありませんか、当方無事、
高村光太郎 智恵
 
こちらは署名のみ智恵子自筆と思われます。
 
ところでこの一角、実は塩原温泉の中心部からはけっこう離れています。下記画像で赤マルが柏屋さんのあるあたり、青マルが塩原温泉の中心部です。
 
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他の温泉を巡った時-焼失した不動湯さんにしてもそうだったようですが、智恵子を落ち着いてゆっくり静養させるため、わざわざ中心部から離れた静かな宿を選んで泊まっていたとのこと。
 
さて、当方夫婦、その後、塩原温泉の中心部に行き、上記地図にもある「塩原もの語り館」というところに入ってみました。
 
塩原周辺出身だったり、塩原を訪れたりした文人墨客に関する展示があるというので、光太郎智恵子も紹介されているかと思ったわけです。
 
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ありました。塩原に関する大きな年011表があり、昭和8年(1933)の項には光太郎智恵子の名。それから二本松市教育委員会さん発行の『アルバム 高村智恵子』も手に取ってみられる状態で置いてありましたし、例の写真もパネルに拡大されて展示されていました。
 
ただ、光太郎は塩原では詩歌を作っていないということもあり、あまり深く紹介されていませんでした。
 
ここでは室生犀星や尾崎紅葉などが大きく取り上げられていました。
 
その後、新そばを食べ、温泉につかり、足湯も堪能し、帰りました。紅葉にはまだ早かったのが残念でしたがなかなか有意義なプチフルムーン旅行でした。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月13日

昭和27年(1952)の今日、終焉の地となった中野桃園町のアトリエに入居しました。
 
智恵子の顔を持つ、といわれる十和田湖畔の裸婦像制作のため、7年半ぶりに上京した光太郎は、水彩画家の故・中西利雄のアトリエを借りました。それまで住んでいた花巻郊外太田村山口の山小屋では、大きな彫刻を作る事は不可能だったためです。
 
本日、夜8:00からNHKEテレで「日曜美術館「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」」の再放送があります。この中野のアトリエ、さらに塩原での写真も映ります。先週の本放送を見逃された方、ぜひご覧下さい。