10/6(日)、福島は二本松旧安達町地区で行われた智恵子忌日の集い「レモン忌」。昨日も書きましたが、青森は十和田から、22名もの皆さんが参加なさいました。
レモン忌に来られる前に花巻の山荘や記念館を観てこられたとのこと。熱心ですね。当方が説明ボードを執筆したと言ったら驚かれていました。
なぜ十和田から大挙して? ということになりますと、今年は光太郎作の「十和田湖畔の裸婦像」(乙女の像)が建立されて60周年ということで、彼の地ではいろいろと記念事業的なところに取り組まれている、その一環としての研修旅行的な意味合いだそうです。
「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんのサイトに、「レモン忌」のレポートがアップされています。
その席上、いろいろな情報やらお土産やらをいただきましたのでご紹介します。
まず情報。
「乙女の像建立60周年記念事業」とのことで、残念ながら先月で募集は終わってしまいましたが、像に通じる湖畔の遊歩道の愛称募集が行われていたそうです。
こういう募集があったとは存じませんでした。まだまだ情報収集力が足りません。反省しました。

遊歩道にフットライトを設置、像まで行ける時間を延長したそうです。いずれ愛称が決定したらまたお伝えします。

その他にも、こちらはこのブログで以前にご紹介しましたが、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが中心となって、裸婦像の背景を探る講演などの「ろまんヒストリー講座」が行われています。来年には講演の内容などをまとめた書籍を発行したいとのことでした。
ところで、5月頃、当方自宅兼事務所に東京のイベント会社から、今年の秋に裸婦像に関わる企画展を行いたいとの協力要請の電話がありましたが、その後、なしのつぶてでした。どうなっているのかな、と思っていましたところ、企画展示の案は予算の都合で立ち消えになったとのこと。残念です。
十和田の皆さんからはお土産もいただきました。奥入瀬源流水のペットボトルです。ありがとうございました。
もったいなくてなかなか飲めません。キンキンに冷やして飲む、珈琲を淹れるのに使う、などと考えています。
それから、10/1には日本郵政さんの東北支社で、オリジナル フレーム切手『十和田湖畔「乙女の像」建立60 周年記念』が発行されたとのこと。

「レモン忌」会場に20セットほどお持ち下さり、希望者に販売して下さいました。通信販売は行って居らず、青森県内の郵便局でしか手に入らないとのこと。これはレアです。これこそもったいなくて使えません。
ちなみに50円が10枚。ですから額面500円なのですが、頒価は900円。日本郵政さん、商売がうまいですね(笑)。しかしネット販売等に対応すれば売り上げはもっと伸びるような気もするのは素人考えでしょうか。
というわけで、今回のレモン忌では、二本松の皆さんと十和田の皆さんの交流が実現しました。さらに花巻の皆さんも含め、東北圏で交流を深めていきたい由。すばらしいお考えだと思いました。出来ることはどんどん協力していこうと思います。
【今日は何の日・光太郎】 10月8日
昭和13年(1938)の今日、駒込林町のアトリエで、智恵子の葬儀が執り行われました。

3年後の昭和16年(1941)8月、詩集『智恵子抄』が刊行されますが、おそらくそのための書き下ろしとして、この日のことを謳った詩「荒涼たる帰宅」が作られました。
荒涼たる帰宅

あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
感情を表す言葉を一切排除し、淡々と経過を追っています。逆にそれだけに光太郎の空虚感がクローズアップされています。
この後、戦後になるまで、発表された詩の中に智恵子が謳われることはなくなります。
愛する者の死を謳い、愛する者に別れを告げ、「詩人」としての光太郎も、一度、死にました。この後はひたすら空虚な戦争詩のオンパレードとなっていくのです。