現在、千葉市美術館で開催中の企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。そのポスターやチラシには光太郎の木彫「蟬」が使われています。
 
今回、「蟬」の木彫は3点展示されており、ポスター等に使われているのは、便宜上「蟬3」というナンバーが降られています。こちらは高村家の所有です。
 
他の「蟬」は買われて日本各地に散り、そ無題2のうち「蟬4」とナンバリングされているものは、新潟県佐渡島の渡邉家が購入しました。大正15年(1926)のことです。今でも渡邉家の方が大切に保存なさっていて、今回の企画展で久しぶりに公開されました。
 
大正時代の渡邉家のご当主は渡邉林平。「湖畔」と号し、与謝野鉄幹の『明星』や『スバル』に短歌を発表、その縁で光太郎と知り合いました。単に知り合っただけでなく、お互いに気が合ったようで、佐渡と東京と、離れていながらお互いの家を行き来したりもしていました。
 
そんな関係で、渡邉家にはこの「蟬」以外にも、光太郎筆の油絵(早世した湖畔の娘の肖像)や書幅、書簡なども多数残っています。ちなみに「蟬」は湖畔の弟で、出版社を経営していた芳松の発注です。それらは平成19年(2007)、新潟市会津八一記念館で開催された企画展「会津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」でまとめて公開されました。
 
さて、過日、湖畔の弟、芳松のご子息・和一郎氏から書籍を5冊もいただきました。『渡邉湖畔年譜』、『渡邉湖畔遺稿集』、『佐渡びとへの手紙 渡邉湖畔と文人たち』上中下の5冊です。和一郎氏、連翹忌にもご参加いただいておりますし、千葉展の初日・オープニングレセプションにもいらして下さいました。
 
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光太郎はもちろん、与謝野夫妻や会津八一などとの交流のようすが生き生きと描かれています。全て新潟での自費出版ということで、簡単に手に入るものではありません。ありがたい限りです。
 
特に「蟬」が再び日の目を見たときのくだり。芳松は早くに亡くなり、「蟬」や関連する書簡は久しく土蔵にしまい込まれていて、しまい込まれたことも忘れられていたとのこと。
 
同じような例は他にもいくつかあります。まだまだ日本のどこかに光太郎の彫刻も眠っているのかもしれません。

2020年追記 京都から5点めの「蝉」が見つかり、2020年、富山県水墨美術館さんでの企画展「画壇の三筆」にて展示されます。

さらに追記 同展、コロナ禍のため中止となりました。残念です。

2021年追記 同展、2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

 
【今日は何の日・光太郎】 7月18日

昭和51年(1976)の今日、6月から開催されていた東京セントラル美術館の「高村光太郎―その愛と美―」展が閉幕しました。
 
この時点ではまだ「蟬4」の存在は一般に知られていませんでした。