【今日は何の日・光太郎】 6月21日

昭和9年(1934)の今日、九十九里浜で療養していた智恵子のもとに、光雲から貰ったメロンを送りました。
 
『高村光太郎全集』第21巻に、以下の書簡(はがき)が掲載されています。
 
昭和9年6月21日 千葉県山武郡豊海村真亀 田村別荘内 斎藤様方 長沼せん子様 駒込林町二五より
 
 今日父の家からメロンを一個もらひましたので小包でお送りしました。包は大きいけれど中は一個だけです。二十三日頃が喰べ頃です。東京は又晴天となり真夏のやうです。それでも此頃はおかげで彫刻が出来るので助かります。
 
宛名の「千葉県山武郡豊海村真亀」は、現在の山武郡九十九里町。「斎藤様」は智恵子の妹・セツ夫妻。「長沼せん子」は智恵子の母です。
 
統合失調症が悪化した智恵子は、この年5月から12月まで、セツ夫妻が住んでいた九十九里で、斎藤一家、母・センと療養生活を送りました。光太郎はほぼ毎週、東京から九十九里に見舞いに訪れていたそうです。
 
そして79年前の今日、九十九里にメロンを送ったとのこと。
 
だから、というわけではありませんが、一昨日、九十九里町に行って参りました。隣接する東金(とうがね)というところに光太郎とは無関係の用事があり、それを済ませてからついでに行った次第です。
 
同じ千葉県内でも、九十九里町は生活圏ではありません。九十九里浜の北端あたりは時折行くのですが、九十九里町はかなり南の方なので、めったに行きません。考えてみると、数年前に二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」さんの研修旅行でガイド役をやって以来の訪問でした。
 
東金の台方ICから東金九十九里道路に乗り、東へ。まずは九十九里ICで下りる直前にある今泉PAに寄りました。ここには平成10年(1998)に建立された光太郎・智恵子の像があります。
 
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制作は日展作家の久保田俶通氏。光太郎・智恵子それぞれの単体の像は日本各地に結構ありますが、二人を群像にしたものはこれが唯一です。
 
今泉PAを後に、九十九里ICで下りると、目の前は国民宿舎・サンライズ九十九里です。その裏手に、昭和36年(1961)建立の「千鳥と遊ぶ智恵子」碑があります。
 
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光太郎の肉筆を拡大して石に刻んだもので、地元の文学愛好者や草野心平の骨折りで建てられました。建立当初はこの碑から九十九里浜が望める位置関係だったのですが、その後、碑と海岸線の間に九十九里波乗り道路が出来てしまい、残念な状況です。現在は碑の近くからトンネルをくぐらないと浜にたどり着けません。
 
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一昨日は風が強く、海もだいぶしけていました。
 
さらにサンライズ九十九里前の県道を南下し、真亀川にかかる橋を渡った大網白里町に、智恵子が療養していた「田村別荘」がかつて移築・保存されていました。しかし、地元でのさまざまな行き違いから、平成11年(1999)に突如解体されてしまいました。これも残念です。
 
さて、今回の九十九里行きは、この「田村別荘」が移築される前、もともと立っていた場所を探訪しようと思い立ってのことでした。恥ずかしながら、その元の場所をこれまで確認していませんでした。
 
少し前に、他の方のサイトで県道沿いのテニスコート付近、という情報を得ていましたので、碑の近くの適当なところに車を駐めて歩き、探してみました。民家の軒先では魚の干物制作中。さすが九十九里浜です。
 
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すると、サンライズ九十九里のはす向かい辺りにテニスコートがあり、そこに標柱が立っていました。
 
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以前は碑の近く、県道の東側を一生懸命探して見つからなかったのですが、逆に県道の西側でした。
 
ここだったのか……と、感慨深いものがありました。

平成30年(2018)追記 この標柱も無くなってしまいました。
 
その後、ちょうど昼時だったので、近くの海鮮料理店に行き、昼食。焼肉店のように各テーブルにコンロがあり、自分で頼んだものを焼くシステムになっている店でした。当方が頼んだのは本蛤(はまぐり)何とかセット(笑)。
蛤×4、イワシ2尾、ホタテとサザエが一つずつ。さらに別メニューで焼きおにぎりも注文しました。
 
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これで2,000円ちょっと。安くはありませんが、十分元は取れる内容です。とにかく美味。満足して帰って参りました。
 
帰ってから、さらにネットで調べたところ、他の方のサイトで意外な-ある意味感動的な-記述を見つけました。明日はそのあたりを書こうと思っています。