歌舞伎俳優の十二代市川團十郎さんの訃報が駆け巡りました。
 
光太郎は、十二代團十郎さんの曾祖父に当たる九代團十郎のファンで、青年期にはよく舞台を観に行っていましたし、2度、彫刻を手がけています(残念ながら2点とも現存しません)。
 
一度目は東京美術学校(現・東京芸術大学)在学中の明治37年(1904)。当時の日記に記述があるのですが、油土を使ったレリーフでした。
 
二度目は昭和12年(1937)から翌13年(1938)にかけて。この時は粘土の塑像でした。しかし、未完成に終わっています。光太郎曰く「それから九代目團十郎の首を作りはじめたが、九分通り出来上るのと、智恵子の死とが一緒に来た。團十郎の首の粘土は乾いてひび割れてしまつた。今もそのままになつてゐるが、これはもう一度必ず作り直す気でゐる。」(「自作肖像漫談」昭和15年=1940『高村光太郎全集』第9巻)。しかし、昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろともこの像も焼けてしまいました。
 
二度目の像を作っている最中に書いた散文や詩も伝わっています。
 
まず散文「九代目團十郎の首」(昭和13年=1938『高村光太郎全集』第9巻)から。
 
 九代目市川團十郎は明治三十六年九月、六十六歳で死んだ。丁度幕末からかけて明治興隆期の文明開化時代を通過し、国運第二の発展期たる日露戦争直前に生を終つたわけである。彼は俳優といふ職業柄、明治文化の総和をその肉体で示してゐた。もうあんな顔は無い。之がほんとのところである。
(中略)
 私は今、かねての念願を果たさうとして團十郎の首を彫刻してゐる。私は少年から青年の頃にかけて團十郎の舞台に入りびたつてゐた。私の脳裏には夙くすでに此の巨人の像が根を生やした様に大きく場を取つてしまつてゐた。此の映像の大塊を昇華せしめるには、どうしても一度之を現実の彫刻に転移しなければならない。私は今此の架空の構築に身をうちこんでいるけれど、まだ満足するに至らない。
(後略)

さらに「團十郎像由来」という詩(昭和13年=1938『高村光太郎全集』第2巻)も書かれました。
 
   團十郎像由来
 
 不動の剣をのみこそしないが001
 おびただしい悪血をはいたわたくしは
 おこさまのやうに透きとほつてしまつた
 精神に於けるオオロラの発光は
 わたくしを青年期高層圏の磁気嵐に追つた
 明治文化の強力な放電体
 九代目市川團十郎にばつたり出あつた
 巨大な彼の凝視に世紀のイデアはとほく射ぬかれ
 腹にこたへる彼のつらねに幾代の血の夢幻は震へ
 彼のさす手ひく手に精密無比の比例は生れ
 軽く浮けば有るか無きかの鷺娘
 山となれば力の権五郎
 一切の人間力の極限を
 生きの身に現じたこの怪物は
 無口なやさしい一個の老人
 品川沖に絲を垂れ
 茅が崎の庭でおでんをくふ
 わたしは捉へ難きものに捉へられ
 茫茫として春夏秋冬を粘土にうもれ
 あの一小舞台から吹き起る
 とめてとまらぬ明治の息吹を
 架空構築にうけとめようと
 新らしい造血作用を身うちに燃やして
 今は絶体絶命の崖の端まで来てしまつた
 
「昭和」に入って「明治」を懐かしみ、「明治」を代表する人物の一人して、九代團十郎を作ろうと思ったようです。
「平成」も25年。「昭和」の名優がまた一人亡くなりました。ご冥福をお祈り申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎】2月6日

昭和16年(1941)の今日、JOAKラジオ(現・NHK東京)で、光太郎作詞の歌曲「歩くうた」が柳兼子の歌で放送されました。

柳兼子は白樺派の美学者・柳宗悦の妻です。