【今日は何の日・光太郎】1月5日

昭和30年(1955)の今日、中野のアトリエで中西利雄夫人・富江にこの年初めての買い物を頼みました。


頼んだのはゴボウ、人参、玉ネギ、ジャガイモ、トイレットペーパーでした。
 
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昭和27年(1952)から同31年(1956)まで、光太郎がその最晩年を過ごしたのは、東京中野に今も残る水彩画家・故中西利雄のアトリエでした。このアトリエを借り受けた光太郎は、花巻郊外の山小屋から上京、十和田湖畔の裸婦像をここで制作しました。
 
光太郎は、裸婦像完成後は再び山に帰るつもりでいましたが、健康状態がそれを許しません。昭和30年(1955)には赤坂山王病院に入院した時期もありましたし、それ以外の時もベッドで過ごすことが多くなります。それでも頼まれれば原稿や書を書き、死の数日前まで日記に書の展覧会を開きたい旨の記述を残しています。
 
そんな光太郎を支えたのが、故・草野心平や北川太一先生ら「年下の友人達」。心平は出版社に掛け合い、印税を前借りして電気冷蔵庫の購入に奔走したりしました。
 
また、中西家の人々も、何くれとなく光太郎の面倒を見てくれました。中西利雄ご子息の利一郎氏は今でも連翹忌に御参加いただいており、その頃の思い出を語ってくださったことがあります。
 
日常の必要な物の購入は、主に中西夫人に託されました。その際に光太郎が書いた膨大なメモが、現在も中西家に残っています。一昨年、群馬県立土屋文明記念館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」に出品された他、利一郎氏の許可を得て、当方により一昨年から『高村光太郎全集』補遺作品集「光太郎遺珠」にその全貌を掲載しています。量が多いので、一昨年は昭和29年(1954)のもの、昨年は昭和30年(1955)のもの、今年4月発行予定のものには日付が入っていない時期不明のものを載せ、それで完結する予定です。
 
便箋や包装紙の裏等を利用したもので、時に図入りで詳細な指示等も書かれています。当時の光太郎の嗜好、需要や健康状態などの細かな生活の断面が垣間見える貴重な資料です。
 
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意外と光太郎は肉食系だったようで、「ソテー用豚肉」とか「ビフテキ用牛肉」「ベイコン」などの文字が目立ちます。また、面白いなと思つたのは、現在でも販売されていたり、当方が子供の頃こんなものがあったっけな、と懐かしく思えたりする商品名が書かれていることです。
 
「サリドン」「ビオフェルミン」「龍角散」「浅田固形アメ」「フジヤプラムケーキ」「あけぼの鮭かん」「モノゲン」「ライオン歯磨チューブ入り」「ミツカン酢」「味の素」「ヤマサ醤油」「アリナミン錠」「小岩井バター」「ミューズ石鹸」「明治オレンジジユース」「渦巻蚊遣二箱(金鳥)」……。

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こういうものを読むと、光太郎、歴史上の人物という感覚ではなく、非常に身近に感じます。