昨日に引き続き、「旬」の光太郎詩を。
クリスマスの夜
――彼の誕生を喜び感謝する者がここにも居る
彼こそは根源の力、萬軍の後盾
彼はきびしいが又やさしい
しののめの様な女性のほのかな心が匂ひ
およそ男らしい気稟がそびえる
此世で一番大切なものを一番むきに求めた人
人間の弱さを知りぬいてゐた人
人間の強くなり得る道を知つてゐた人
彼は自分のからだでその道を示した
天の火、彼
彼こそは根源の力、萬軍の後盾
彼はきびしいが又やさしい
しののめの様な女性のほのかな心が匂ひ
およそ男らしい気稟がそびえる
此世で一番大切なものを一番むきに求めた人
人間の弱さを知りぬいてゐた人
人間の強くなり得る道を知つてゐた人
彼は自分のからだでその道を示した
天の火、彼
――彼の言葉は痛いところに皆触れる
けれども人に寛濶な自由と天真とを得させる
おのれを損ねずに伸びさせる
彼は今でもそこらに居るが
いつでもまぶしい程初めてだ
けれども人に寛濶な自由と天真とを得させる
おのれを損ねずに伸びさせる
彼は今でもそこらに居るが
いつでもまぶしい程初めてだ
――多くの誘惑にあひながら私も
おのれの性来を洗つて来た
今彼を思ふのは力である
この土性骨を太らせよう
飽くまで泥にまみれた道に立たう
今でも此世には十字架が待つてゐる
それを避けるものは死ぬ
わたしも行かう
彼の誕生を喜び感謝するものがここにも居る
おのれの性来を洗つて来た
今彼を思ふのは力である
この土性骨を太らせよう
飽くまで泥にまみれた道に立たう
今でも此世には十字架が待つてゐる
それを避けるものは死ぬ
わたしも行かう
彼の誕生を喜び感謝するものがここにも居る
暗の夜路を出はづれると
ぱつと明るい灯(ひ)がさしてもう停車場
急に陽気な町のざわめきが四方に起り
家へ帰つてねる事を考へてゐる無邪気な人達の中へ
勢のいい電車がお伽話の国からいち早く割り込んで来た
ぱつと明るい灯(ひ)がさしてもう停車場
急に陽気な町のざわめきが四方に起り
家へ帰つてねる事を考へてゐる無邪気な人達の中へ
勢のいい電車がお伽話の国からいち早く割り込んで来た
大正10年(1921)の作。『高村光太郎全集』第1巻に収録されています。品川の蛇窪に住んでいた親友・水野葉舟の家で催されたクリスマスの帰途の心象です。光太郎がイエス・キリストをどう捉えていたかがよくわかりますね。
しかし、光太郎はキリスト教徒ではありませんでした。
宗教のことになると僕は大きなことはいえないが、それでも学生時代、思案余つて植村正久先生の門を叩いたことがある。当時僕はどうしてもクリスチヤンになることが出来なかつた。即ちキリスト教に入れなかつた。友達はすらすらと入つて、心の安心を得て勉強しているのに、僕は生来下根の性なのか、いつまでたつても、入ることが出来ない。悶々としている。そこで僕は植村先生の家を訪ねた。
「先生、僕はどうしてもクリスチヤンになれないんですが、何かいゝ方法はないでしようか」(笑)
「君は今何をやつている?」「美術学校で美しいものを創ろうとしています」
「自然を見て美しいと思うか」「思います」
「じや、誰がいつたいその美しい自然をつくつたのか」
僕はわからなくなつてしまい「自然が創つたんでしよう」といつたが、もう一度帰つてよく考えて来いといわれ、すごすごとひきかえしたことである。
植村先生は造化――つまり神が造つたんだと気づかせたかつたのでしよう。しかし僕にはできなかつた。僕は長いことかゝつてそれを考えたけれども、どうしてもクリスチヤンになることは出来なかつた。キリスト自身のいうことは皆受けいれられないことはないが、伝説のところにくると、ひつかゝつて。どうしても入れない、今でもそうだ。
(「炉辺雑感」昭和28年=1953 「光太郎遺珠⑧」掲載予定)
「先生、僕はどうしてもクリスチヤンになれないんですが、何かいゝ方法はないでしようか」(笑)
「君は今何をやつている?」「美術学校で美しいものを創ろうとしています」
「自然を見て美しいと思うか」「思います」
「じや、誰がいつたいその美しい自然をつくつたのか」
僕はわからなくなつてしまい「自然が創つたんでしよう」といつたが、もう一度帰つてよく考えて来いといわれ、すごすごとひきかえしたことである。
植村先生は造化――つまり神が造つたんだと気づかせたかつたのでしよう。しかし僕にはできなかつた。僕は長いことかゝつてそれを考えたけれども、どうしてもクリスチヤンになることは出来なかつた。キリスト自身のいうことは皆受けいれられないことはないが、伝説のところにくると、ひつかゝつて。どうしても入れない、今でもそうだ。
(「炉辺雑感」昭和28年=1953 「光太郎遺珠⑧」掲載予定)
植村正久は、プロテスタントの牧師。内村鑑三らとならび、明治大正を代表する伝道師の一人です。先述の水野葉舟は植村により洗礼を受けています。それが「友達はすらすらと入つて、心の安心を得て勉強している」です。しかし光太郎はどうしても入信できませんでした。
だからといって、光太郎は無神論者というわけでもなかったと思います。彼にとっての「神」は自らの内なる「美」。
……とにかく美の後に何かあるんだということは、植村先生にいわれたから、いつまでも考えていた。美は向こうにあるのではなく、自分にある。自分が美をもつている人はお堀の穢い水を見ても美と感じられる。
(同)
(同)
彫刻や絵画による造型の美、詩で追い求めた言葉の美、常に光太郎の指針はそこに「美」があるかないかでした。
宮城県歌人協会会長だった佐久間晟氏、すゑ子夫妻は戦後、光太郎の住む岩手花巻郊外の太田村山口の山小屋を訪れた際「美しくないことはしない方がいいですね」という光太郎の言に触れ、感動したそうです。当方、佐久間夫妻から直接うかがいました。
こういうところも光太郎の魅力の一つだと思っています。