一昨日の国会図書館での調査で見つけた、『高村光太郎全集』等未収録の作品を御紹介します。
 
大正6年(1917)2月2日の『東京日日新聞』に載った談話です。内容はロダンに関して。ロダンはこの年11月に亡くなりますが、その前から何度か重病説が報じられ、これもその時のものです。
 
ロダン翁病篤し 大まかな芸術の主 作品は晩年に一転して静に成て来た
 
『ロダンは千八百四十年巴里の生れで本年十一月十四日で満七十七歳になる。工芸学校に入学し、昼はルーブル美術館に、夜は図書館に通ひ、尚動物彫刻の大家バリに学んで刻苦精励し十七歳で卒業し、一人前になつて芸術家といふよりは職人の生活に入つた。
 在学中三度まで美術家の登竜門なるボザー(官立美術学校)の入学試験を受けたが、三度まで素描で落第し終に断念したが、晩年この事を人に語つては「あの時落第したのは実に幸福だつた」と述懐した。彼の職人生活はかなり長く具に辛酸を嘗めた。
 其間の仕事といふのは噴水の装飾とか壁縁の装飾の石膏細工であつたが、その下らない仕事こそ後年立派な果実を結ぶ根を養つたのであつた。廿三歳の時シヤンバーニユの田舎娘なるローズと結婚し翌年彼の有名な「鼻の潰れた男」をサロンに出して美事に刎られた。
 それは無論出来の悪い為では無く当時の審査官の固持せる美の標準からは醜悪極まる物に見えたのであつた。其の證拠には三年後のサロンで同じ物が立派に通過した、
 普仏戦争の最中白耳義に出稼ぎし白耳義にはその当時の作品が沢山残つてゐる。卅六歳の時までその国に滞在して、問題の作品「黄銅時代」を作り掛けたのも其頃だつた。「黄銅時代」は等身大の男の立像で、人間の精神の覚醒を象徴したので足一本に半年も費やした苦心の作だつたが、仏国へ帰つてサロンに出品すると一旦授賞を決定され間も無く取消された。といふのは余りに真に迫つてゐた為、生きてゐる人間の身体に型をあてて取つた詐欺的の作品といふ誤解を受けたからだ。
 其うち彼の真の技倆を認める人が多くなつて、四十歳の時同一の物をサロンに再び出して三等賞を受け先年の寃が雪がれた上政府に買上られ、今はルクサンブール美術館にある。この時代から彼の製作の速力は増大し、毎年多数の傑作を産んで其名声は漸次世界的になつた。続いて出たのが『聖ジヨンの説教』『アダム』『イヴ』ポルトロワイヤル庭園にあるユーゴーの記念像等である。
 装飾美術館のダンテの門を飾るべき『フランチエスカの群像』『三人の影』『思想』等をも作つた。ダンテの門は中止になり、『思想』は彼の希望に依りパンテオンの前に安置されたが、これはダンテの神曲の中の地獄へ落ち行く人から思ひ付いたもので彼の代表作と呼ばれてゐる。
 文豪バルザツクの記念像を頼まれ、似てゐないといふので刎ねられたこともあつた。その頃から彼の作風は一転化を来たして大まかな綜合的な芸術となりだんだん単純に静かになつて来た。彼には女弟子クローデル、男弟子エミール・ブールデルの他に余り有名な弟子はない。』
 

00311月にロダンが亡くなった際にも、光太郎の追悼談話があちこちに掲載されましたが、重病説の時に語った談話は今回が初めての発見でした。
 
ロダンの生涯が簡潔に、しかし押さえるべき点はきちんと押さえた上で語られています。途中に出てくる「ダンテの門」というのは「地獄の門」、「思想」というのが「考える人」です。
 
「廿三歳の時シヤンバーニユの田舎娘なるローズと結婚し」とありますが、それは事実婚ということで、その時点では入籍していません。もちろんそれは光太郎も知っていました。
 
二人が入籍したのは、この談話が掲載される直前の1月29日。その点に関する記述がないため、この時点では光太郎もそれは知らなかったようです。前年に軽い脳溢血を起こしたロダンは、以後健康に不安を抱え、同じく病気がちとなったローズとの入籍を果たしたのだそうです。しかしそれもむなしく、ローズは2月14日に歿し、ロダンの健康もすぐれません。結局、先に書いたとおり、ロダンはこの年11月に亡くなります。
 
事実婚というのは、フランスではさほど珍しいことではなかったようです。サルトルとボーボワールなどもそうでした。
 
実は光太郎と智恵子もそうです。結婚披露宴は大正3年(1914)の12月でしたが、入籍したのは智恵子の統合失調症がのっぴきならぬところまで行ってしまった昭和8年(1933)です。これは自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障といった意味合いもあったようです。光太郎、ロダンの真似をしたというわけではないのでしょうが、おそらく頭の片隅にはロダン夫妻の事はあったと思います。
 
光太郎とロダン、他にもたどった軌跡に奇しくも共通点があります。それは先の談話の最後に書かれている「女弟子クローデル」について。そのあたりを明日のブログに書きましょう。