少し前に戦時中の金属供出で失われてしまった光太郎、光雲作の銅像について書きました。
 
そもそも上野の西郷さんの原型(木型)が鹿児島に運ばれ、そこで空襲により焼失した、という話の流れからそちらに行ったもので、あまり下調べもせずに書きました。
 
書きながら、光雲作の以前にご紹介した長岡護全像以外の光雲作の銅像の数々はどうなっているんだろう、と疑問がわき、そこで、調べてみました。ネットで調査してみると、昭和3年に刊行された『偉人の俤(おもかげ)』という書物があることを知りました。これは、明治から昭和初年に国内に建造された銅像700基余りを、ほぼ網羅した写真集です(すべて、ではありません。大正7年(1918)の浅見与一右衛門像などは漏れています)。そして、平成21年に復刻版が刊行されており、さらに「資料編」もついているとのこと。この本にあたればかなり詳しいことがわかりそうだと気付きました。
 
当方生活圏の図書館に所蔵されていればと思い、まず成田市立図書館のHPを調べました。成田市立図書館はこれまでもけっこうマニアックな(笑)書籍が収蔵されていて、非常に助けられています。案の定、ありました。
 
そこで早速、昨日、行って調べて参りました。その結果、やはり光雲作の銅像もかなり戦時供出されていることが判明しましたので紹介します。
 
① 西村勝三像 明治39年(1906)
 
西村勝三(天保7年(1837)~明治40年(1907))は、日本で初めて本格的な靴を製造した実業家です。その功績をたたえ、向島の西村家別邸に建てられました。

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当方所蔵の古い絵葉書です。
 
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こちらは『偉人の俤』から。
 
 
② 坂本東嶽像 大正12年(1923)
 
東嶽坂本理一郎(文久元年=1861~大正6年=1917)は秋田県選出の代議士。郷里の秋田県仙北郡美郷町千屋に建てられた像です。
 
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以前に地元の方から送っていただいた資料のコピーです。
 
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こちらはやはり『偉人の俤』から。
 
この2体は『偉人の俤』資料編によれば、やはり戦時供出で現存せず、ということになっています。
 
ただ、坂本東嶽像は現在、秋田の仙北に現存しています。岐阜の浅見与一右衛門像のように、戦後に新たに別人が作ったのでしょうか。または、やはり光雲作・愛媛の広瀬宰平像は、供出されたものの、原型が保存されており、それを使って復刻されています。そのパターンでしょうか。情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。
 
その他、無くなった理由が不明ながら無くなった銅像もあります。

 福井県 大和田荘七像 敦賀町永厳寺境内 明治44年
   〃  松島清八像 福井市足羽公園内 明治39年
 
さらに、残っているかどうかも不明、というものも。

 栃木県 松方正義像 那須郡西那須野村 明治41年
 
このあたりに関しても情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。

同じブロンズでも、寺院に寄進され、露座として境内にある光雲作の仏像類は、かなりの程度こちらで情報を把握しています。それらは現存するものも多く、いずれ見て歩こうと思っております。