先日紹介しましたNHK総合テレビで放映の「歴史秘話ヒストリア」、昨日オンエアされました。
 
光雲が制作主任となって、上野に作られたおなじみの銅像が取り上げられましたが、光雲とか東京美術学校という話にはなりませんでした。少し残念でしたが、銅像の場合、「誰が作ったか」より「誰を作ったか」が重きをなすことが多いので、しかたがないでしょう。
 
ただ、顔の制作の際、「光雲が」という主語は抜けていましたが、弟の西郷従道の顔を参考にした、というエピソードは紹介されていました。
 
下の画像は、やはり古い絵葉書。銅像の完成後、西郷さんの故郷・鹿児島に据えられた原型の木型です。

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少し後の時代になると、銅像の類は粘土で原型を作る塑像が一般的になりますが、この時期(西郷像は明治25年=1892)、原型は木彫で作られていました。これが残っているのであれば、鹿児島まで見に行こうと思っていたのですが、残念ながら太平洋戦争中に空襲で焼失してしまったそうです。
 
光太郎の彫刻もそうですが、戦災で焼失したものは少なくありません。また、金属供出といって、武器制作のため、全国の銅像が次々と鋳つぶされました。渋谷のハチ公もしかり。現在のハチ公は2代目です。光雲や光太郎の作った銅像にも、供出されてしまったものがあり、原型も空襲で焼けてしまったため、今では写真でしか見られないものもあります。
 
そうかと思うと、昨日のニュース、今朝の新聞で報道されていましたが、なんと、十和田湖の湖底から旧日本軍の飛行機が引き上げられたとのこと。
 
何とも複雑な思いです。