昨日のブログで、バーナード・リーチの写真を載せるため、彼の『東と西を超えて 自伝的回想』(福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年)を引っ張り出しました。

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ついでに光太郎に関する記述がある部分を読み返してみましたところ、ちょっと面白いエピソードがあったので紹介します。

 私の最初の日本人の友、高村光太郎が今私の心に甦って来る。私はいまでも、初めの頃の彼の手紙をいくらか持っている。
 (中略)
 最近一九七三年にもなって、彼についてある事柄が起こった。それは私が、秩父宮妃殿下の催された小さな親しい茶席に招待された時のことである。妃殿下自身も陶器をお造りになり、芸術の後継者であられた。わずか八人が出席しており、ある一刻、私にだけお話しをされた。たまたま、私の古い友人の高村の詩がお好きであると言われた。私は驚いて、妃殿下の方を向いて言った。「高村はわれわれが二人とも学生であった頃のロンドンでの私の初めての友人です。私はご存知のように日本語は読めませんが、数行が心に浮かんで来ます。
 
  秩父おろしの寒い風
  こんころりんと吹いて来い
 
妃殿下は驚いて私の方を向かれた。こんなに驚いた人を私は知らない。一度だけ私の記憶が正確だったのだ。そして、何と奇妙なことに高村は、妃殿下の土地-秩父-の名を使ったのである。

 まず「秩父宮」は昭和天皇の弟君、秩父宮雍仁親王。社会活動としてスポーツの振興に尽くし「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれ、秩父宮ラグビー場にその宮号を遺しています。国民の人気も高かったのですが、昭和28年、50歳の若さで急逝。その際、光太郎は「悲しみは光と化す」(『高村光太郎全集』第6巻)という散文を書いて哀悼の意を表しています。 
 
 勢津子妃殿下は平成7年、85歳までご存命でした(会津藩主松平容保の孫だったそうで、これは当方、存じませんでした)。
 
「秩父おろしの寒い風/こんころりんと吹いて来い」は、リーチ来日中の大正元年、『白樺』に発表された詩「狂者の詩」の一節。正確には「秩父おろしの寒い風/山からこんころりんと吹いて来い」で、この詩の中でリフレインされています。
 
 話の流れからすると、妃殿下はリーチと光太郎の関係をご存じなかったのではないかと思います。光太郎歿して17年。二人の間に秩父おろしの風のようにさっと吹いた光太郎の思い出。いい話だな、と思いました。
 
 これも妃殿下がご存知だったかどうか不明ですが、秩父宮家と光太郎の関連はもう一つ。昭和3年のご成婚を祝し、「或る日」という詩を発表しています(『全集』第2巻、初出不詳)。これに関しても面白いエピソードがあるので、明日、紹介します。