昨日拝聴して参りました、日本大学芸術学部髙橋幸次教授のご講演からのインスパイアで、光太郎彫刻の空間認識といったことについて述べてみたいと思います。
 
まず有名な十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)について。これは昭和28年(1953)の作。光太郎はこの像を造るため、7年間の山居を切り上げて上京しました。智恵子の顔をもつ、といわれています。
 
この像の除幕式で述べた「裸婦像完成記念会挨拶」(『全集』第11巻)には、こんな一節があります。
 
造形的には群像になりますから、像ばかりでなくて、像と像の間に出来るいろいろな空間が面白い。それで、それを考慮して、いろいろなシンメトリカルな穴が出来るわけです。それが面白いわけです。
 
また、『東奥日報』に載った「高村氏制作の苦心語る"見て貰えば判ります"像の意味は言わぬが花」という談話(「遺珠」③)では、以下の通りです。
 
あの像は全体がこういう(手で形を示して)ピラミツド型になつていて上へ行つて交叉している気持なんです。それを中途で切つた辺が頭になつていて、二人の中間のあたりが、ちょうど将棋の駒みたいなかつこうを形づくつている。彫刻は空間を見るんですネ。像が一人のときは真中が主になるが、二人以上の群像になると、二人の間にできるスキ間に面白味があるんですよ。

図にしてにると、下の画像のようになるでしょうか。写真は『高村光太郎彫刻全作品』(穴沢一夫他編 六耀社 昭和54年=1979)からスキャンさせていただきました。
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この隙間というか、余白に注目するという考え方は、書道でもよく行われます。光太郎が特に晩年、書の制作に意欲を燃やしたのも、あながち無縁ではないでしょう。

続いて平成14年(2002)、実に70余年ぶりに見つかった栄螺(さざえ)の木彫です。

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これについても、少し長いのですが、光太郎自身の言葉を引用してみましょう。出典は昭和20年(1945)の「回想録」(『全集』第10巻)です。
 
 実はその栄螺を彫る時に、五つ位彫り損つて、何遍やつても栄螺にならない。実物のモデルを前に置いてやつてゐるが、実に面倒臭くて、形は出来るのであるが、どうしても較べると栄螺らしくない。弱いのである。どうしてもその理由が分らないので、拵へ拵へする最後の時に、色々考へて本物を見てゐると、貝の中に軸があるのである。一本は前の方、一本は背中の方にあつて、それが軸になつてゐて、持つて廻すと滑らかにぐるぐる廻る。貝が育つ時に、その軸が中心になつて、針が一つ宛殖えて行くといふことが解つた。だからその軸を見つけなければ貝にならない。成程と思つて、其処をさういふ風に考へながら拵へたら、丸でこれまでのと違つて確りして動きのない拠り所が出来た。それで私は、初めてかういふものも人間の身体と同じで動勢(ムウヴマン)を持つといふことが解つた。それ迄は引写しばかりで、ムウヴマンの謂れが解らなかつたが、初めて自然の動きを見てのみこまなければならないといふことを悟つた。
 それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違はずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考へ、その理法の推測のもとに物を見て、それに合へばいいし、さうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやつたものは、本当の謂れが分らないから彫つたものが弱い。展覧会などにも、さういふ弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違はないけれども、その形の拠り所分つてゐないから肝心のところで逃げてゐて人形のやうになつて了ふ。人形と彫刻とは丸で格段の違ひである。その違ふ製作的根拠をはつきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
 
こういう光太郎の空間認識を意識して、光太郎の彫刻を見ると、また違った見え方になります。画像ソフトでいたずらしてみました。参考にしてみて下さい。写真は平成2年(1990)に茨城県近代美術館他で行われた企画展「高村光太郎・智恵子-その造形世界」の図録からスキャンさせていただきました。
 
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ただし、「白文鳥」の木彫は2体をどういう向きに並べるべきなのかはよくわかりません。
 
結局、光雲たち草創期の近代彫刻家には、こういう意識が欠如、あるいはあっても不十分だったということではないのでしょうか。専門の方の御意見を伺いたいものです。
 
今日の内容が、みなさんがどこかで光太郎彫刻を目にする時の一助となれば幸いです。