さて、花巻行レポートの二回目です。
 
スポーツキャンプむら屋内運動場での高村祭を後にし、岩手高村記念会の高橋様とともに、山荘に向かいました。ここを訪れるのは10回目ぐらいですが、今回は特別に山荘内部に入れて頂けるとのこと。
 
ご存じない方のために申し上げておきますが、山荘とは、光太郎が昭和20年(1945)から7年間暮らした小屋です。山荘というしゃれた名前は名ばかりで、屋根は杉皮葺きで天井はなく、壁は隙間だらけの粗壁、今回初めて知りましたが、土台も柱をしっかり地面に埋めてあるわけではなく、大きめの石の上に置いてある状態です。光太郎が暮らしていた頃、冬場は隙間から雪が舞い込み、寝ている布団にもうっすら積もったというのですから、恐ろしい環境です。今でも周囲に人家はなく、電気も昭和24年(1949)までは引かれておらず、水は当然のように井戸。もっとも、山の麓なので少し掘ればすぐ水は湧くと言うことですが、逆に光太郎自身「水牢」と表現した程に湿気がひどかったそうです。
 
そのまま剥き出しにしておいては早晩朽ち果てるだろうということで、昭和33年(1958)には套屋(とうおく……上にかぶせた建物)が作られ、そちらも傷んできて昭和52年(1977)には鉄骨造りの第二套屋が建てられました。現在、見学者は第二套屋の内部に入り、第一套屋の外側からガラス越しに山荘を見る形になっています。似ているものを挙げろ、といわれれば、昨年世界遺産になった中尊寺金色堂を見学するイメージでしょうか。

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で、今回は高村記念会の特別なお計らいで、山荘の内部に入れて頂きました。もちろん初めての体験です。靴を脱ぎ、かつては畳が3枚敷かれていたという板敷きに上がりました。部屋としては意外と広い感じもしますが、この一間だけです(もっとも、昭和26年=1951には2間×3間の別棟-こちらは少し離れた場所に移動-が付け足されましたが)。また、当時の写真で見ると、壁際には書物がうずたかく積み上げられ、やはり最低限の居住空間でしょう。当時の書物は今でも作り付けの棚や床に置かれた茶箱の中などに無造作に置かれています。他にも雑多な生活用品の数々、囲炉裏のつけ木まで残っているのには驚きました。

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高村記念会の高橋氏曰く、やはり湿気のため、第一套屋の傷みがひどく、根本的に改修をしたいとのことでした。この小屋で劣悪な環境にめげず、光太郎は自らの戦争責任を恥じ、さらにそれまでの人生を振り返り、いつもどこかしらに無理があった社会との関わりを反省し、積極的にかつ自然な形で山口地区の人々との交流を持ちました。ここにいたって初めて光太郎はヒューマニストとしての姿を確立します。そうした巨星・光太郎を偲ぶよすがとして、永久に保存してほしいものです。
 
その後、近くに建つ記念館を拝見しました。こちらには光太郎の遺品や作品の数々が展示されていますが、内部をリニューアルし、以前は展示していなかったものも新たに出したとのことで、早速、初めて見る書簡なども見つけました。のちほどデータを送って下さると言うことで、楽しみにしています。
 
記念館には偶然、本宮寛子さんもいらしていて、以後、行動を共にさせて頂きました。聞けば当方と同じ光太郎ゆかりの大沢温泉さんにご宿泊とのこと。やはり高村記念会の浅沼氏(光太郎がここで暮らしていた頃の旧山口小学校長・故浅沼政規氏のご子息で、御自身もよく光太郎に郵便物を届けに行かれたそうです)のご厚意で、車で大沢温泉さんまで送って頂きました。非常に有り難い限りでした。
 
次回は大沢温泉をレポートいたします。