新聞2紙から。

まず智恵子の故郷・福島の『福島民報』さん、昨日の一面コラム。

あぶくま抄 路傍の花(9月6日)

二本松市岳温泉の医師で九十歳の鈴木孝雄さんはこの夏、自宅近くの野に咲く花を写真と短文で紹介する「路傍の花-安達太良山東麓 岳台地を歩く-」を出版した。三年かけて約二百種を撮った。ほんとの空の下にそっと息づく生命を慈しむ▼新年を祝うフクジュソウ、春夏のシャクナゲ、安達太良の象徴として歌に詠まれるマユミ…。朝夕の散歩中、足元にほころぶかれんな姿に引かれ、カメラを向ける。診療実務を退いた後、患者の楽しみにと、クリニックのホームページに載せた企画を一冊にまとめた▼「ミヤコザサ線」と呼ばれる植生の境界が岳台地を通る。最高積雪が五十センチとなる地点を南北に結ぶ。この線を境に、雪の少ない太平洋側にミヤコザサ、雪の多い日本海側にチマキザサが生える。岳では、両側の植生が見られることを知った。身近な自然の面白さに取りつかれ、観察を続ける▼岳温泉文化協会が二十年以上にわたり刊行している会報を、会長として本にするのが次の目標だ。ヒメボタルやモリアオガエルの研究など、地域の宝を掘り起こす多彩な成果に光を当てる。年齢を重ねて、ますます盛んな好奇心と探究心が古里の道端を照らす。

何とも地元愛溢れる活動に頭が下がります。安達太良山の山の上に毎日広がる「ほんとの空」とともに、東京にいても草花を愛し続けた智恵子も、泉下で眼を細めているような気がします。

続いて『夕刊フジ』さん。

夫婦で歩いた山から望む「ほんとの空」 高村光太郎『智恵子抄』福島県二本松市・智恵子の杜公園

000 ほんとの空、を見たくなった。
 〈智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ(中略)阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ〉
 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の有名な詩「あどけない話」。最初に知ったときは、郷愁をうまく表現したなぁ、とのんきな感想を抱いた。
 でも、先立たれた妻を追想しながら光太郎が編んだ『智恵子抄』を通読すると、少し印象が変わる。夫婦で愛を育む一方で、智恵子は画家として挫折し、生活苦や闘病などを経て、次第に精神を病んでいった。光太郎はこの詩を紹介しつつ、智恵子は年に3、4カ月は帰郷していたと記す。なぜなら〈田舎の空気を吸って来なければ身体がもたない〉から。「ほんとの空」は、それほど切実な欲求だったのだ。
 阿多多羅山は、福島・中通りにそびえる安達太良山のこと。酒造りを営んでいた智恵子の生家が二本松市に残っている。訪ねてみると、記念館が併設されていて、智恵子が病床で制作した切紙絵などを鑑賞できた。
 生家から安達太良山は見えない。案内図をもらって、近くにある鞍石山への遊歩道をたどってみる。夫婦二人でそこを散策するシーンを描いた「樹下の二人」という詩を参照しながらのんびり歩く。
  〈がらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた空気を吸はう。あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう〉
 東京生まれの光太郎も、智恵子を癒してくれる自然を愛しんでいた。都会へ戻ることをこんなふうに書くほどに。〈私は又あした遠く去る、あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ〉
 鞍石山は「智恵子の杜公園」として整備されていて、「樹下の二人」の詩碑も発見。頂上付近の展望台からは安達太良山が望めた。〈あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。ここはあなたの生れたふるさと…〉
 空を見上げて深呼吸。二人の別天地を少しだけ近く感じられたひととき。だがしかし、私も無頼の都へ帰らねば。

一昨年に始まったコロナ禍のため、各種イベント等の中止が相次ぎ、当方も2年近く二本松方面に行っておりません。何とかこの秋には、と思っているのですが……。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

文部省芸術課長宇野俊夫氏くる、芸術院会員のこと、再考受諾の話ありたれど理由を話して断る、領解してかへる、

昭和28年(1953)12月19日の日記より 光太郎71歳

芸術院会委員への推薦を光太郎が断ったことに関わります。この日訪れた役人はいったん了承して帰りましたが、結局これで万事終了とは成りませんでした。