土曜美術社出版さん発行の雑誌『詩と思想』。今月号は光太郎と交流のあった詩人・高祖保の特集で、光太郎にも触れられています。
005
特集部分の目次はこちら。

 ◆ 高祖保アルバム
 ◆ メール対談 外村彰×青木由弥子 高祖保について――外村彰さんに聞く
 ◆ 評論
  外村彰 高祖保 生涯と詩想
  萩原健次郎 不滅の審美――高祖詩の現在
  國中治 高祖保式詩作装置
  江田浩司 高祖保の詩、歌、句の関係性
  澤村潤一郎 湖べりの去年の雪――高祖保と彦根の詩景
  大塚常樹 高祖保を育てた「椎の木」
  宮崎真素美 高祖保の「詩」――戦時下の振幅から
  島田龍 高祖保と左川ちか――「椎の木」の頃から「念ふ島」へ
  扉野良人 『をぢさんの詩』のこと
 ◆ エッセイ
  漆原正雄 ひきあげてゆくものは、詩の精神による補ひでなければならない。
  木下裕也 詩集『獨樂』を読む
  高嶋樹壱 全身のごとく、全行で受ける力
  田中さとみ 「Kool Snow in the dome」
  重光はるみ 高祖保の家族愛
 ◆ 資料篇
  友森陽香 特別展「生誕一一〇年 雪の詩人 高祖保展」を開催して
  清須浩光 郷土出身の詩人・高祖保顕彰活動
  高祖保略年譜/附・ブックガイド
  青木由弥子 書評・『牛窓 詩人高祖保生家 念ふ鳥 補記』


高祖保(明治43年=1910~昭和20年=1945)は、岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)の生まれ。父の死後、9歳で母と共に母の実家のあった滋賀県彦根に移り住みました。旧制中学時代から詩作に親しみます。國學院大學師範部を卒業し、横浜で叔父の経営する貿易会社に入社、のち、社長となったものの、昭和19年(1944)に出征し、翌年にはビルマ(ミャンマー)で戦病死しています。

昭和初め、光太郎も稿を寄せていた雑誌『椎の木』に寄稿したあたりから、光太郎との交流が生まれたようで、その後、高祖の個人雑誌に近かったという『門』に、確認出来ている限り光太郎は2回寄稿しています。また、昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け翼賛詩集『をぢさんの詩』の編集に高祖があたりました。光太郎本人による同書の序文には「なほこの詩集の出版にあたつて一方ならず詩人高祖保さんのお世話になつた事を感謝してゐる。」と記されています。

平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他が出品され、驚きました。
8aa261ff
献呈署名に曰く、

此の詩集の成る、 まつたくあなたのおかげでありました 印刷の字配り、行わけ、の比例から校正装幀などの御面倒まで見てくださつた事世にも難有、茲に甚深の謝意を表します
  昭和十八年十一月   一十六歳 高村小父  高祖保雅友硯北

難有」は「ありがたく」、「茲に」は「ここに」と読みます。「雅友」は「風流な友達」、「硯北(けんぽく)」は手紙の脇付決まり文句で、「机下」「座下」などと同義です。「一十六歳 高村小父」は、この詩集が年少者向けのものだったことに関わる、数え61歳の光太郎の洒落ですね。

高祖に宛てた葉書も同時に出品されました。昭和18年(1943)7月27日付けでした。

おたより拝見、又々御入院のことを知り、驚きました。今度は十分御療養なされて無理をされぬやう申しすすめます。
此前はまだ出あるきに無理だつたのだと推察されます。御送付の校正刷は別封で御返送いたします。一箇所かなをなほしました。
尚つひでに「某月某日」を同封いたしました、おんつれづれの時にでも御披見下さい。すべてゆつくりやつて下さい。

校正刷」は『をぢさんの詩』のためのものですね。

『詩と詩人』に載った年譜に拠れば、高祖はこの年5月中旬から肺炎のため入退院をくり返し、約三ヶ月の闘病生活を送ったそうです。また、翌年4月頃には、肺炎と腸チフスを併発しています。にもかかわらず、7月には召集を受け、南方戦線へ。そして昭和20年(1945)1月、ビルマでマラリア罹患に急性腸炎を併発し、戦病死しています。

光太郎はその後、戦後になって高祖の死を知り、追悼文を書きました。

 召集せられて出てゆかれたときいた時、ちよつと不安を感じた。あのデリカな健康で、おまけにかなりな病気をしたあとで、たとへどのやうな任務にしろ、軍隊生活をするのは無理だと思つた。あの細い指に軍刀をつかませるのは無残な気がした。ビルマのような暑い土地に送つて此の有為な若い詩人を死なしめた乱暴な、無神経な組織体そのものをつくづくなさけないものに思ふ。その粗剛な組織体がともかくも日本から消え失せるやうな事になつた今日、高祖保さんのやうな詩人こそ今居てもらひたいといふ循環心理がぐるぐるおこる。つい二年程まへに私の詩集「をぢさんの詩」を編纂してくれた彼がもう居ない事を此の奥州の山の中で考へるのはつらい。人里離れた此の小屋の炉辺に孤坐して彼を思ふと、その風姿が彷彿として咫尺の間に迫る気がする。彼のしんから善良な生れつきと、高雅清純な育ちと、繊細微妙な神経の洗練と、博くして又珍らしく確かな教養とをつぶさに観たのは、此の「をぢさんの詩」編纂に関してたびたび私の書斎に彼が来てくれた時の事であつた。実に労を惜しまぬ、心を傾けての彼の尽力にはただ感謝の外なかつた。そして一切を委せて安心出来た。わたくし自身のやり得る以上の事をやつてくれた。組方から、校正から、かな使ひから、装幀から、その隅々にまで彼の神経が行きわたつた。昔郷里の江州に居た頃高祖保さんが出してゐた詩誌にわたくしが「その詩」と題する詩一篇かを寄稿した事を徳として、その事を忘れず、死の運命のひそかに近づいてゐたあの頃、わたくしへの報恩の意をそれとなく尽してくれたもののやうな気がする。まだ夜陰の風は肩にさむい。炉の火に柴を加へて彼の冥福をいのるばかりだ。
 彼の詩そのものについては、それを語るわかい友人が多いことと思ふ。今わたくしは別に述べない。


昭和21年(1946)5月、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれたこの読む者の胸を打つ文章は、終戦直後の出版事情の混乱により、光太郎生前は活字になることがありませんでした。

さて、『詩と思想』の特集、かなりの分量でして、まだ読破しきっていません。したがって、上記追悼文に触れられているかどうかは不分明です。『をぢさんの詩』についての文章はありましたが。本日、公共交通機関を使っての移動がありますので、その間に読了したいと存じます。

ロシアによるウクライナ侵攻というこのご時世こそ、無謀な戦争で死んでいった詩人の生の軌跡に学ぶところが多いのではないでしょうか。オンラインで注文可です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前午后仕事、顔其他、一応出来上る、


昭和28年(1953)5月31日の日記より 光太郎71歳

仕事」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作です。この後も若干の手直しが入りますが、一応の完成を見ました。遺された完成記念報告会のためのメモでも、この日を完成としています。