光太郎の父、光雲のからみで、見落としていた新聞記事がありました。『夕刊フジ』さん4月8日(金)掲載で、その後気づいたものの、紹介するタイミングを失っていました。

今日になって『毎日新聞』さん東京版にも同じ記事が出ました。どうも共同通信さんあたりの配信記事のようです。

東京舞台さんぽ 越後屋の歴史継ぐ日本初の百貨店「三越」 東京・日本橋室町

 江戸時代後期に歌川広重が描いた浮世絵「名所江戸百景・するがてふ」は、買い物客らでにぎわう呉服店「越後屋」と遠くに見える富士山を描いた作品。するがてふ(駿河町)は、現在の東京都中央区日本橋室町のことで、越後屋は日本橋三越本店として当時と同じ場所で営業を続けている。
 三井高利が1673年に江戸に開いた越後屋は、83年に駿河町に移転。現金掛け値なし、切り売りといった画期的な商売手法で大繁盛した。江戸庶民の憧れの地であり、富士山の眺望が良かった駿河町は、浮世絵の格好の題材だった。
 1904年に三越呉服店と屋号を改め、日本初の百貨店となった。堂々たるルネサンス様式の本館は35年に完成したもので、2016年に国の重要文化財に指定された。完成当時は国会議事堂、丸ビルに次ぐ大建築だった。
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 正面玄関で買い物客を迎え入れる2頭のライオン像は、三越の象徴的存在。内装は華やかで、本館1階中央ホールにそびえる高さ約11メートルの天女像は、まるでゲームの〝ラスボス〟のよう。壁面には大理石が張り詰められており、隠れたアンモナイトの化石を探すのも楽しい。
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 建物の屋上には三井家を守る三囲神社があり、商売繁盛と幸運をもたらすとされる活動大黒天の木像が祭られている。日本を代表する彫刻家、高村光雲が、1912年に手掛けた。
 越後屋が伝説の名工左甚五郎に大黒を彫るよう依頼する、古典落語「三井の大黒」とよく似た話であることに興味をかき立てられる。しかし三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からないという。
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【メモ】屋上には「漱石の越後屋」と刻まれた石碑がある。夏目漱石の作品に越後屋や三越が多く登場することを記念して、2006年に建てられた。

日本橋三越さん。実は当方(「実は」というほどのことでもありませんが(笑))、学生時代の4年間、冬休みはお歳暮の時期ということで、三越さんでアルバイトをさせていただいておりました。と言っても店舗ではなく、配送の方でしたが。バブル前夜の景気が上向いていた時期で、バイト代もけっこうなものでしたし、何と言っても老舗中の老舗だけあって、扱う品物も豪勢なものでした。当時のN首相宛のお歳暮、ウィスキー1本40,000円也とか(笑)。

閑話休題。

屋上に鎮座まします三囲(みめぐり)神社さんに納められているという光雲作の大黒天像。通常非公開でして、当方、画像も見たことがありませんでした。こういうものだったのか、さすが光雲、という感じです。

記事では「三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からない」とあり、残念です。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に「光雲に依頼した経緯や落語との関係」が載っていますので。もっとも、光雲が語っているのは落語ではなく講談との関わりですが、内容的には同一でしょう。

少し長くなりますが、関係する部分を引用します。「左甚五郎と其研究」という章の、まず冒頭「未だ曾て出会つたことがない」という項から。明らかな誤字は正しました。

 左甚五郎と其作の事に就いては、予も子供の時分からいろいろ聞ては居るが、真実甚五郎の作なるものには、未だ曾て出会つたことがない。思ふに左甚五郎といふ人は、机山系に属する左利きの彫物大工ではあるまいか。併(しか)し乍ら、何分にも其遺作が明瞭ならぬので、其人の有無さへも疑はれて只今の処では、未だ何れとも断言することの出来ないのは、甚だ遺憾とする処である。
 従来何処でも堂宮の彫物に、無銘の美事な作があると、其多くは甚五郎作と称せられ、また木像彫刻になると、拙劣極まる大黒天の像にも甚五郎作の名を附けて、巧拙ともに甚五郎にしてあるのは、実に不思議な訳であるが、考へて見ると、之れには相当の理由があると思ふ。
(略)
 後者は左甚五郎が江戸に出て来て、大工の棟梁某の家に食客となつて居た時、小刀で彫つた不状(ぶざま)な大黒天の像を、越後屋(今の三越呉服店)へ持つて往つて見せた処、其大黒天が莞爾(につこ)と笑つたと云ふので、直ぐさま大枚百両に買つて呉れ、越後屋も此大黒天を買つてから、店が一層繁昌したといふ話から起つたもので、之れは講釈師が張扇に花を咲かせた作り話であるが、これから考へついて、大工彫の拙(まづ)い大黒天でさへあれば左甚五郎作と云ふ名を附けて、狡猾(ずる)い古道具屋などが担ぎ廻すのではあるまいか。
(略)


それに続く「三越の大黒天」という項。

 越後屋の大黒天の事に就て、三四年前の事、予は三越呉服店の日比翁助氏に、其実否を尋ねた処、氏は一向知らぬとあつて、更に同店の大黒柱と云はれて居る、藤村喜七老人へ、其事を問合せてくれられたが、藤村老人も、然(さ)う云ふ大黒天は全く無いと答へたさうだ。乃(そこ)で日比氏は此話を縁として店に大黒天を祀りたいと言出し、其製作を予に依頼されたから、随分念を入れて彫つたが、此大黒天には、予の銘を入れて置いたから、後世に至つて伝来の甚五郎作の大黒だなどゝ、間違へられる気遣ひはない。
(略)


日比翁助は三越専務、藤村喜七は常務です。このあと、藤村の還暦祝にと三越から贈られた黄金の大黒像原型も、光雲が依頼されて彫ったという話が続きます。

昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』は、700ページ超の分厚いものです。前半3分の2ほどが「昔ばなし」で、光太郎の友人だった作家・田村松魚が光雲宅に出向いて語ってもらい筆録した回顧談(一部はそれ以前に公の場で語ったもの)、後半3分の1ほどは「想華篇」と題し、国華倶楽部などさまざまな場で語ったさまざまな内容の話の筆録集成です。

「昔ばなし」の方は、後に中央公論美術出版さんと新人物往来社さん、日本図書センターさんからハードカバーの覆刻が出、岩波文庫さんでも『幕末維新懐古談』の題名で出版されました。さらにインターネット上の青空文庫さんにもおそらく全文が掲載れていると思われます。

とこらが「想華篇」の方は、その後の各種覆刻ではカットされており、そのため一般にはあまり知られていません。三越さんの大黒天像については「想華篇」で語れており、そこで「三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からない」ということになってしまったのでしょう。

「想華篇」部分も含めた覆刻、あるいは「想華篇」単独での覆刻がなされてほしいものです。三越さんの大黒天像以外にも、生人形の松本喜三郎や光雲の師・髙村東雲、さらにそのまた師・髙橋鳳雲、主に関東の寺社建築や装飾彫刻などについても語られており、貴重な記録です。

ところで余談というと何ですが、上の方の画像にもある、やはり日本橋三越さん所蔵の巨大天女像、正式な作品名は「天女(まごころ)像」といい、作者は佐藤玄々。佐藤は元々、光雲の高弟の一人・山崎朝雲の弟子で、「朝山」と号していました。従って光雲から見ての孫弟子に当たります。ところが、思うところあって朝雲門下を離れ、「玄々」と改名しています。

参考までに。

【折々のことば・光太郎】

午后新宿行、三越にてウドン等 二幸にて肉まん、タキシでかへる、


昭和28年(1953)2月25日の日記より 光太郎71歳

光太郎、三越さんの日本橋本店ではなく、新宿店でうどんを食べたか、あるいは自宅調理用に買ったかしたようです。「二幸」は現在の新宿アルタの場所にあった総合食品店。やはり三越さんのグループ企業でした。