先週の『北海道建設新聞』さん、一面コラムから。

透視図 2022年05月25日

友だちとはいつも一緒にいて、仲良く笑い合える関係と考える人がほとんどでないか。詩人の高村光太郎は少し違ったらしい。「友よ」という作品にそれが示されていた▼後段の一節を引く。「友とは同じ一本の覚悟を持つた道づれの事だ 世間さまを押し渡る相棒だと僕を思ふな 百の友があつても一人は一人だ 調子に乗らずに地でゆかう お互にお互の実質だけで沢山だ その上で危険な路をも愉快に歩かう」。岸田首相が23日、日本を訪れたバイデン米大統領と会談したとの報に触れ、その詩を思い出した。同盟関係とはまさにそういうものだろう。戦争の抑止と平和維持のために、それぞれが応分の責任を果たす。ただの仲良しこよしではない▼どちらかといえば存在感の薄い両首脳だが、会談の内容は濃かったようだ。首相が防衛力の強化と裏付けになる防衛費の増額、「反撃能力」の確保を表明すると、大統領も米国の「核の傘」や通常戦力による「拡大抑止」を約束。強固な同盟関係を印象づけた。日本では小声で語られるのが常だった防衛費の積極的増額や反撃、核といった言葉が、具体性を伴って違和感なく前面に出てきている。ロシアのウクライナ侵略で日本でも戦争の危機を真剣に考える空気が醸成されたからに違いない▼戦争は話し合いで回避できる、防衛問題については議論もしたくないといったいわゆる「お花畑」論的反発が今回大きくないのも事情は同じだろう。戦争を前提に置かねばならないのは悲しい現実だが、「危険な路を愉快に」歩くには日米同盟の強化が必要である。

引用されている「友よ」は、昭和6年(1931)、前田鐵之助主宰の雑誌『詩洋』に掲載されたもので、当方も好きな詩の一つです。

   友よ

 まづ第一に言つておかう
 僕から世間並の友誼などを決して望むな
 僕は君の栄達などを決して望まぬ
 君のちいさな幸福などを決して祈らぬ
 君は見るだらう
 僕が逆境の友を多く持ち順境の友をどしどし失ふのを
 なぜだらう
 逆風の時に持つてゐた魂を順風と共に棄てる人間が多いからだ
 僕に特恵国は無い
 僕の固定の友は無い
 友とは同じ一本の覚悟を持つた道づれの事だ
 世間さまを押し渡る相棒だと僕を思ふな
 百の友があつても一人は一人だ
 調子に乗らずに地でゆかう
 お互にお互の実質だけで沢山だ
 その上で危険な路をも愉快に歩かう
 それでいいのだと君は思つてくれるだらうか

光太郎数え49歳、ここで言う「」は、特定の人物を想定しているものではないような気がします。この時期の「」といえば、当会の祖・草野心平や、その周辺にいた黄瀛、真壁仁、更科源蔵、猪狩満直、尾形亀之助らの詩人、それからこの年渡欧した彫刻家の高田博厚らが思い浮かびます。それぞれ、確かに「順境」とは言えない人々で、そのすべてに捧げる、という意味合いに読み取れます。「順境」の人々――文壇や美術界でいわゆる「大家(たいか)」となりつつあった人々とは、疎遠とは言わないまでも、一定の距離を置いていたようです。「逆風の時に持つてゐた魂を順風と共に棄てる人間」と感じる人物が実際に複数いたのでしょう。

それにしても、頭の良くない当方などは、バイデン大統領、結局、「YOUは何しに日本へ」と感じているのですが、どうなのでしょうか。「「フミオ」「ジョー」と呼び合う」などとも報道されていますが、どーーーーーーーでもいい気がします(笑)。それこそ「お互にお互の実質だけで沢山だ」です。
001
まぁ、小学校での銃乱射事件を受けて「教師に銃を」とスピーチした前大統領より100倍マシだと思います(笑)。「教師に銃を」発言を批判するのも「お花畑」と言われてしまうかも知れませんが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

好晴、温、午后風、冷、 朝の雑煮と夕食とを中西さん宅によばれ、一同と会食、

昭和28年(1953)1月1日の日記より 光太郎71歳

昭和28年(1953)の元日、光太郎数え71歳となりました。光太郎の命の炎もあと3年と少しです。おそらくそういう自覚があったものと思われ、この時期に手がけていた生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、異例の速さで完成にこぎつけます。

002ちなみにネット上では「高村光太郎の最後の作品」「完成まで1年余りかかった」という頓珍漢な記述が為され、さらにそれをコピペしてブログ等に引用する人が多くて閉口しています。「最後の大作」であって「最後の作品」ではありません。「最後の作品」は、小品ながら、「乙女の像」除幕式の際に配付された「大町桂月記念メダル」です。また、「完成まで1年余り」かかっていませんし、「1年余りかけるなんて凄い」という文脈は、まるでわかっていませんね。光太郎は一つの彫刻に、最長15年近くかけた例もありました。

中西さん宅」は、光太郎が起居していた貸しアトリエの大家(おおや)だった故・中西利夫宅。貸しアトリエと同じ敷地内で、未亡人の富江夫人、子息らが居住していました。

この年もそうだったかどうか不明ですが、子息らは光太郎からお年玉を貰ったそうで、原稿用紙を折りたたんで作ったポチ袋が中西家に現存しています。