福岡に本社を置く『西日本新聞』さんの一面コラム、先週土曜の掲載分です。
引用されている詩「新緑の頃」は、昭和15年(1940)5月6日の作。光太郎詩の中では意外と有名な一篇で、特にこの季節、このように時折、各種朗読や新聞一面コラム等で取り上げられます。
新緑の頃
美しい初夏の自然を謳っている詩ではありますが、やはり昭和15年(1940)。日中戦争は泥沼化の様相を呈し、その打開のため、翌年には無謀な太平洋戦争に突入する時期です。そこで「日本の美」を高らかに謳い上げることで、国民の結束をはかろうという意図も見え隠れします。そういう部分を差っ引いて読めば、いい詩ですが。
上の画像は自宅兼事務所の桜の木です。ついでに自宅兼事務所の「新緑」を何枚か。
秋には真っ赤になるコキア。

植えた覚えもないのに何故か生えている(笑)桑の木。実がなっています。
そして「新緑の頃」にも謳われた楓。
植物にはコロナもマスクも関係なく、季節を謳歌していますね。
それにしてもマスク。この国は同調圧力の国ですが、本当に「心配りだけは外さずに」うまく付き合いたいものです。
【折々のことば・光太郎】
青森読売の人くる、彫刻経過を語る、 東奥日報の人くる、同様の話、撮影、
「彫刻経過」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の進捗状況。
『東奥日報』では、翌年の元日の紙面で記事になりました。
小見出しにもなっていますが、この中で光太郎が十和田湖の印象を「乙女」と表しています。それが像の通称「乙女の像」の遠因の一つとなった部分もあるような気がします。
春秋 マスクの「心配り」は外さずに
「青葉若葉に野山のかげろふ時、/ああ植物は清いと思ふ。」。高村光太郎の「新緑の頃」である。山々の粧(よそお)いもぐっと明るくなって、今年もこの詩のような季節が到来した▼今日は二十四節気の一つ「小満」。万物が成長し、生命力がみなぎる時期という。そんなおめでたい時節なら「大満」とすべきなのに、なぜ「小」なのか▼言葉が生まれた中国では、最大限まで行き着くのは慎むべきと考えられた。ピークに達したら後は欠けて、衰えるしかない。完成に向かい進歩する「小」にあえてとどめた、との説がある。昔の中国人は随分と謙虚だったのだろう▼若葉が萌え出でるとともに、マスクがつらい季節になってきた。欧州では、交通機関での着用義務を解除した国もある。世界は「脱マスク」の流れが加速しているようだ▼国内でも「屋外では、会話をしない場合に」などの条件で、不要とする議論も起きている。統一ルールを求める声も出始めた。ただ他国はどうあれ私たちは「和」を重んじる国民性だ。他者へ着用を強いる圧力にならないように、同時に非着用が周囲への不快感を与えないように、心配りだけは外さずにいたい▼冒頭の詩はこう続く。「植物はもう一度少年となり少女となり/五月六月の日本列島は隅から隅まで/濡れて出たやうな緑のお祭。」周りの状況が許せばマスクを取り、さわやかな光に、空気に、緑の祭りを楽しみたい。引用されている詩「新緑の頃」は、昭和15年(1940)5月6日の作。光太郎詩の中では意外と有名な一篇で、特にこの季節、このように時折、各種朗読や新聞一面コラム等で取り上げられます。
新緑の頃

青葉若葉に野山のかげろふ時、
ああ植物は清いと思ふ。
植物はもう一度少年となり少女となり
五月六月の日本列島は隅から隅まで
濡れて出たやうな緑のお祭。
たとへば楓の梢をみても
うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
小さな葉つぱは世にも叮寧に畳まれて
もつと小さな芽からぱらりと出る。
それがほどけて手をひらく。
晴れればかがやき、降ればにじみ、
人なつこく風にそよいで、
ああ植物は清いと思ふ。
さういふところへ昔ながらの燕が飛び
夜は地蟲の声さへひびく。
天然は実にふるい行状で
かうもあざやかな意匠をつくる。
美しい初夏の自然を謳っている詩ではありますが、やはり昭和15年(1940)。日中戦争は泥沼化の様相を呈し、その打開のため、翌年には無謀な太平洋戦争に突入する時期です。そこで「日本の美」を高らかに謳い上げることで、国民の結束をはかろうという意図も見え隠れします。そういう部分を差っ引いて読めば、いい詩ですが。
上の画像は自宅兼事務所の桜の木です。ついでに自宅兼事務所の「新緑」を何枚か。
秋には真っ赤になるコキア。

過日、碌山美術館さんで購入してきた蕎麦の種がわっと芽を出し、蕾もつけていました。
そして「新緑の頃」にも謳われた楓。
植物にはコロナもマスクも関係なく、季節を謳歌していますね。
それにしてもマスク。この国は同調圧力の国ですが、本当に「心配りだけは外さずに」うまく付き合いたいものです。
【折々のことば・光太郎】
青森読売の人くる、彫刻経過を語る、 東奥日報の人くる、同様の話、撮影、
昭和27年(1952)12月22日の日記より 光太郎70歳
『東奥日報』では、翌年の元日の紙面で記事になりました。
小見出しにもなっていますが、この中で光太郎が十和田湖の印象を「乙女」と表しています。それが像の通称「乙女の像」の遠因の一つとなった部分もあるような気がします。