今年も3.11が近づいて参りました。

宮城県女川町。昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎が女川を訪れたことを記念し、平成3年(1991)に竣工した光太郎文学碑の建立に奔走し、その後の女川光太郎祭運営に尽力した貝(佐々木)廣さんが、津波に呑まれて亡くなって、もう11年か、という感じです。

震災後、津波の際の避難の目印として、町内の高台に建てられ続けてきた「いのちの石碑」。光太郎文学碑の建設費用が募金でまかなわれたことに倣い、当時の中学生たちが全国に呼びかけ、浄財が集まりました。震災から10年だった昨年には、当初計画の21基が完成しています。

先月15日の『河北新報』さん。仙台市の尚絅(しょうけい)学院中学校さんの生徒さんたちによる「尚絅新聞」というコーナーで、「いのちの石碑」を訪れた際のレポート等が。

1000年後の命を守りたい 宮城・女川 震災教訓刻んだ「いのちの石碑」 実行委・鈴木さん 「1000万円 募金集め建立」

 「1000年後の命を守っていくための活動です」
 旧女川中の敷地内に建てられた「いのちの石碑」を前に鈴木智博さん(22)は実行委の取り組みを語りました。震災当時は小学6年生。直後に入学した女川中の同級生らとともに、2012年秋ごろから津波の脅威を伝える石碑を建設しようと活動を始めました。
 提示された1000万円の建設費用は、修学旅行先の東京など、各地で100円募金を呼び掛け、約半年かけて集めました。
 13年11月、1基目が完成。女川町内の全21行政区に、順次石碑が設置されました。石碑には、「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください」という言葉を入れました。
 さらに、女川中の生徒が考えた俳句も添えられています。「夢だけは壊せなかった大震災」「ただいまと聞きたい声が聞こえない」など全21基にそれぞれ句が彫ってあります。どれも震災を経験して感じた率直な気持ちが込められています。
 実行委では、震災の記憶を後世に伝えるための「命の教科書」の制作など、さまざまな活動にも取り組んでいます。
 長い間、海と共に暮らしてきた女川の人にとって、海はなくてはならない存在。津波が街を襲っても、再び海の見える街をつくろうと決断しました。鈴木さんたちの活動は、これから増えていく震災を知らない世代に、自分の命を自分で守る大切さを伝える役割も担っているのです。
 最後の1基は21年11月23日に完成しましたが、「1000年先の命も守る」という思いを持つ鈴木さんたちにとっては、たった1%を過ぎただけ。鈴木さんは、「大きな津波が来たとしても、被害を受ける人を一人でも少なくしたい。そして、残りの990年、みんなで命を守っていきたい」と強く語りました。
 今回、鈴木さんにお話を聞いて、いのちの石碑の存在をもっとたくさんの人に知ってもらい、命を守るために何ができるかを考えていきたいと思いました。
【2年生 佐藤ひかり・鳥飼日和・藤枝慎之輔】

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記事にある鈴木智博さん。かつて、毎年8月9日(光太郎が昭和6年=1931に、「三陸廻り」執筆のため東京を発った日)に行われていた(一昨年、昨年はコロナ禍のため中止)光太郎を顕彰する「女川光太郎祭」に複数回参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさいました。

最近はこのように県内外から訪れる人々に、「いのちの石碑」のあらましを伝える語り部としても活動されています。今年1月の栃木県那須町の広報誌『広報那須』から。
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昨秋行われた、那須中央中学校さんの修学旅行に関わります。この際も鈴木さんがご講演なさいました。

鈴木さん、今月初めと思われますが、NHKさんのローカル番組にもご出演。

未来への証言/女川町 鈴木 智博さん

鈴木 智博(すずき・ともひろ)さん(22)※年齢や情報は取材時点
女川町在住。震災の津波で母と祖父母の3人を亡くした。中学生の時から同級生とともに未来の人たちへのメッセージを記した「女川いのちの石碑」を建てる活動を始め、令和3年11月に当初の目標であった21基目が完成した。子どもたちに震災の教訓を伝える教科書作りや、震災遺構を残す活動も行っている。
(聞き手・構成:丹沢研二アナウンサー 令和3年12月22日取材)
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小学校卒業間近 津波が町を襲った
丹沢)つらい記憶を思い出すことにもなるので、話したくないことは話したくないと言ってくださいね。震災当時は小学校6年生?
鈴木)小学校6年生ですね。卒業式の練習が終わって教室に戻って反省会とかをしていた時間でした。
すごい覚えているのが、黒板の横に天井からちょっと低いくらいの戸棚が置いてあって、その上にブラウン管のテレビが置いてあったんですね。それが地震の揺れで目の前にバーンと落ちてきてグチャグチャになって、机の下には隠れていたんですけど机ごと揺れて動いて、という状況でした。その後はいったんみんなで校庭まで急いで避難しました。3月で雪もちらほら降っていたのですごい寒くて、でも着のみ着のまま避難してきました。先生が、余震もあったんですけど学校の中に戻って、上着を取ってベランダからポンポン投げてくれて、それを拾って自分のを着たのを覚えています。
丹沢)津波が来たときはどんな状況でしたか?
鈴木)地域の人たちが下からどんどん避難してきて「津波が来る」って誰かが言いました。僕自身は見てはいないんですけど「すごい勢いで波が来る」って言うので、そこからもっと上の方の、山の上の総合体育館に避難しました。最初の夜はクラスの友達同士で集まっていたんですけど、次の日とか、ちょっと経ってくると家族の人が迎えに来たり一緒に避難したりしていましたね。そこにどれぐらいいたのかな。1週間までいないと思うんですけど。
丹沢)家族の安否は分からなかった?
鈴木)全然分からなかったです。当時避難所で、よく遊びに行っていた家の人に混ぜてもらって一緒に毛布みたいなのに入らせてもらっていたんですけど、人づてに尾浦の方ではうちのお父さんは何とか大丈夫そうだと、船回してるっていうのはちらっと聞いて、それ以外は全く分からない。妹2人いて、上の方は小学生だったんで一緒に避難して分かっていたんですけど、当時保育所にいた下の妹の方は全然分からないという状況でした。
丹沢)分かったのはいつぐらいですか?
鈴木)お父さんが女川町内から外れた浜だったので、何日か経った後に同じ浜の近所の人が迎えに来てくれて、その時に下の妹は保育所の先生が避難させたって一緒に来て、そのあと自分の浜に帰ってから、お母さんとおじいさんおばあさんがいないんだっていうのを聞かされました。
丹沢)どこで亡くなったとか詳しいことが分かったのは?
鈴木)最初おじいさんだったんですけど、それが大体5月6月ぐらいだったかな、確か。7月まで仙台市の方に避難していて、そこから奈良県に行くんですけど、7月までにおじいさんとお母さんは何とか見つかりました。その後におばあさん。おばあさんだけ見つからなくて、DNA鑑定で分かったという状態でした。

父と子ども、家族4人の生活に
鈴木)最初女川のお寺で3月末ぐらいまで、そのあと仙台の伯母さんの所に避難して、そのあと奈良県にお母さんの実家のおじいさんおばあさんがいるんですけど、そこに避難しました。
丹沢)転々としながら。女川に戻ったのはいつぐらいですか?
鈴木)2011年の12月末ぐらいかな。冬休みに入る時に転校して、こっちに帰って来て仮設住宅に入って、1月から女川の第一中学校に通い始めました。中学校高校で大体5年弱ぐらい仮設住宅に4人で住んでいたんですけど、お父さん、仕事は毎日朝も早い中で、朝ご飯、夕ご飯、高校の時はお弁当も作ってもらって。本当に感謝しています。
丹沢)当時お父さんは漁に出て、カキの養殖とか…。
鈴木)メロウド漁も行っていました。朝はいなかったですね。たぶん何か出来たやつをチンしたりしていたのかな、高校の時は。今だと自分でぱっと作れるんですけど。お弁当買ってあることが多かったかな。
丹沢)その中で長男だったらまだ3歳だった妹のお世話とか…。
鈴木)そうですね。妹と遊ぶからっていうので家事からは逃げていましたね。(笑)

家族を失った悲しみは…
丹沢)お母さんやおじいさんおばあさんが亡くなった悲しみを家族で受け入れていくのも大変だったんじゃないですか?
鈴木)たぶん…。最初の方はそんな暇もなかったのかなと思いますね。毎日大変すぎてあまり覚えていないんですよ。妹2人の方が覚えているかなって思うんですけど、それどころじゃないぐらい毎日毎日何かしなきゃならなかったので、やっと今になって少しずつって感じじゃないかなと思います。
丹沢)今になって?10年経って…。
鈴木)本当に。そんな暇がないくらい、毎日大変だったかなと思いますね。
丹沢)今思い出すことはあります?
鈴木)そうですね。たとえば卒業式とか成人式とか。もしかしたらその先の結婚式とかあるかもしれない中で、そういう時にたぶん思い出すんだろうなというのはありますね。お父さんが言っていたのは、「見せたかった」じゃないですけど、卒業式とかそういう締めの時にいないのは思う所があるみたいです。

1000年後の命のために石碑を建てる
智博さんは中学生時代から同級生らとともに石碑を建てる活動を始めた。「1000年後の命を守るために」を合言葉に、津波の到達点より上の高台などに設置されている。写真は2013年11月23日、1基目の石碑の除幕式の時のもの
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鈴木)石碑は、2011年4月に津波で大変なことになってしまった故郷のためにどういうことが出来るかみんなで考えたいという授業を最初にしたらしいんですけど(※当時智博さんは仙台の中学校に通っていてた)、急にこっちに帰ってきたら「石碑を立てたい」とか色々聞いて、「無理だろうな」って。どうせ中学生が言っているだけで、計画させて「よく出来ました」で終わりなんだろうなって何となく思っていたんですけど、1年生の最後の方に、当時の僕は何を思ったか分からないんですけど、社会科の先生に「作文を書きます」って言ったんですよ。内容が震災の記憶というか体験について。「誰か書く人いれば教えてね」と言われて「僕書きます」って言っちゃったんですよ。そこから中心っていうか関わるようになってきて。僕の始まりはそんな感じでした。

中学校1年生だった智博さんの作文。智博さんたちが作った「女川いのちの教科書」に掲載されている。
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丹沢)作文を見た周りの人たちが「こういう思いがあるなら」ということで巻き込んでいったんですか?
鈴木)作文を書いたあとに、委員会みたいなのを作ろうという話があった時に勝手に名前が載っていたんです。当時「津波対策実行委員会」って名前だったんですけど、そこに入れられていて、「実家が漁師だから海のことにも詳しいだろう」って委員長に祭り上げられて、そこから中学校の間は一応まとめ役としてやっていました。

中学生が1000万円の資金を集める
丹沢)石碑を建てるとなったらお金とか色々なことが出てくるでしょう?
鈴木)一番はやっぱりそこで、まず協力してくれる石屋さんがなかったんですよ。最初の頃。丸森の石屋さんに何とか紹介していただいて、行ったら「石は寄付させていただきます」と。本当に有難い話なんですけど、「設置費と工事費、あと彫るお金は何とかしてほしいです」と言われて、どれぐらいなのかなと思っていたら、「1000万かかる」って言われたんですよ。
丹沢)中学生で…。
鈴木)いやこれはどうしようって思って、でもせっかくやってきたんだし、お金がないから募金して集めるしかないよねって。中学2年生の秋、冬ぐらいかな、最初100円募金で色んなお店に募金箱を置かせていただいて女川の町内で募金活動していました。そのあと東京に修学旅行で4月に行った時に、まあ大人になってからでも東京は行けるだろうし、中学生の時、この活動をやっている時にしかできないことをしたいねということで、文部科学省とか電通とかジブラルタ生命とかユネスコとかそういう所にお邪魔して発表して募金活動させてもらいました。2013年の夏に目標の金額達成して11月に第1基、第2基の披露ということでつながりました。
丹沢)すごい!中学生が1000万。
鈴木)そうなんですよ!本当にまさかと自分たちもびっくりしたんですけど、何より先生方とか、よく来て取材していた方とかが、もう「まさか」って感じで本当にびっくりしていました。

自分と同じ思いはしてほしくないから
丹沢)気が付いたら委員長になっていたという状態で。そういうことを頑張るのはすごくはっきりした意志がないとできないんじゃないかと思うんですけど…。
鈴木)はっきりした意志があるかと言われたらそれは自分でもよくわかっていない所はあるんですけど、でも、地元のために何かしたいなっていう気持ちと、自分みたいな被害というか、同じ思いをしてほしくないって思いは中学校の時から今もあると思います。僕だけじゃないんですけど、みんなそういう気持ちで、何とか今もやっているのかなという気がしています。
よく「建って良かったね」「これで終わりだね」って言われるんですけど、建てて終わりではなくて、100年後だろうが200年後だろうが1000年後だろうが、それがあるからこそ一人でも多くの人の命を救えたら、その時にやっと建てて良かったなというのを思うと思うんですよ。
ゴール的には、一人でも多くの人の命が次に災害が起きた時に助かればって思いでやっています。
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「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」
「逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください」などと刻まれている。

“夢だけは 壊せなかった 大震災”
石碑にはそれぞれ五七五のメッセージが刻まれている。1基目と21基目のメッセージは「夢だけは 壊せなかった 大震災」
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丹沢)「夢だけは壊せなかった大震災」あの言葉は誰が考えたんですか?
鈴木)あれは同級生です。僕ではないんですけど、当時中学生だった僕らの1個2個上の世代の人たちが国語の授業で、俳句の短い言葉で自分の思いを吐き出そうという中で出来た俳句で、これはいいなって思うのを自分たちが選んで載せています。あの「夢だけは壊せなかった大震災」もその一つで、第1基と最後の石碑の両方で同じやつが刻まれています。
丹沢)ちょっと難しい質問かもしれないですけど、夢ってなんですか?
鈴木)笑。難しいですね。
丹沢)智博君にとっての。
鈴木)そうですね。なんでしょうね。昔から「自分はこうしたい」というのはあんまりないんですけど、何かしらの形で人のために貢献できるような活動ができればなあって思っていた所があったので、それがこういう防災の活動に近いのかなっていうのはあります。これを自分が嫌になるまで、とりあえず死ぬまで続けていきたいなって。自分も続けられるようにですけど、下にもちゃんと受け継いでいけるような、そういう活動をしていきたいなっていうのが、夢ですかね。

あの甚大な被害、そして残された人々の思い、決して風化させてはならない、と、改めて思います。明日もこの項、続けます。

【折々のことば・光太郎】

晴、 かたづけ、洗濯、毛皮収納、


昭和27年(1952)6月13日の日記より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋。さすがに6月ともなれば、マタギから買い求めた分厚いカモシカの毛皮も不要となったようです。
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